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発病しないための試み。
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しかし、暗黙知における第一項と第二項の関係は、その上さらに、要因の細目(第一項)が統合化された全体(第二項)によってはじめて意味づけられることから、意味づけあるいは意味作用の関係としても捉えることができる。〈現象的側面〉と呼ばれたことと関連づけていえば、第一項は第二項の現われのなかほじめて特別な意味をもったものとなるのである。この場合、主項と第二項の関係は、文における個々の単語とそれらの全体が示す意味との関係にきわめて近く、かつ言語表現のうちに、第一項と第二項のこの関係が分かりやすいかたちで示されている。だからポランニーも、手紙の文を構成することばとその表わす意味を例にとって暗黙知を説明する(Personal Kanowlendge,p.57;pp.91-92)とともに、意味付与と意味読解を暗黙知の立場からの考察の課題としている(Knowing and Being,p.181 ff)。(なお、ポランニーは暗黙知のこの第三の側面を、〈意味論的側面〉と呼んでいる。そして最後に、彼は暗黙知が、第一項と第二項の間に意味をともなった関係をうち立て、それによって包括的な存在を理解するものであることから、その側面を暗黙知の〈存在論的側面〉と呼んでいる)。以上において私は、ポランニーの〈暗黙知〉の考え方を捉えなおすのに、〈副次的意識〉(subsidiary awareness:従属的意識とも訳される)と〈焦点的意識〉(focal awareness)あるいは、副次的なものと焦点的なものという対概念をわざと使わないできた。これらは、それ自体として考えようとすると混乱を惹き起こす対概念だからである。しかし、右に見てきたようなかたちで、暗黙知の構造とダイナミックスとを捉えることによって、ようやく今、混乱を起こさずに、第一項と第二項とにかかわる意識(感知)の二つの形態の意味と働きを明らかにすることができる。
 すなわち、暗黙知におけるひと(第三項としての個人)が第一項(要因の細目)から第二項(統合化された全体)へと注意を向け第一項を第二項と結びつけるときに働く意識(感知力)は、第一項に向けられているものと第二項に向けられるものとは、相異なっている。前者が副次的意識であり、後者が焦点的意識である。この二つは相異なるばかりでなく、それ自体として相容れない。が、前者が第一項に、後者が第二項に対して働くのは同時であり、そのようなものとして重なり合っている。そして暗黙知のなかで焦点的意識が間違って第一項(要因の細目)のほう一向けられることがあると、たちまち第二項(統合化された全体)が解体し、暗黙知は破綻してしまう。そのことは、たとえば十分体得されたピアノの演奏のようなパフォーマンス性の強い暗黙知について顕著に見られる。楽譜の一々や指の動きに焦点的意識が向けられたりすると、パニックの状態に陥るだろう。
 また、副次的意識と焦点的意識とが二重の意識として働くのは、総合化された全体(あるいは意味)にまとめられる副次的な手がかりのすべてを、ひと(第三項である個人)が焦点的に感知しえないからではない。副次的な手がかりのすべてを同定することも、原理的には不可能ではない。しかしそこに焦点的注意が向けられると、副次的な手がかりとして働いていたなにかがその働きをやめ、かつて持っていた意味を失うのである。したがって、暗黙知にあって第一項たる副次的手がかり(あるいは要因の細目)は、本質的に明記されえない。だが、このように副次的な手がかりが明記されえないとは言っても、その明記しがたさには相異なる二つの型があって、その両方がそこには含まれている。第一の型は、副次的な手がかりを詳しく描き出すことは不可能ではないが難しいということにもとづいている。第二の型は、副次的な手がかりがその性質上、暗黙知においては、論理必然的にかつ原理上絶対的に意味を欠いているということにもとづいている。
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前述、「〈暗黙知〉と〈共通感覚〉」において
暗黙知の概要みたいなところに、入って来ていますが、「意味と生命」でも同じような、
解説がある。私は正直言って、最初はよくは理解出来なかった。
それというのも、特に内容が難解であるなどということではない。
むしろ、当たり前の内容のように、思えてならなかった。
我々における、部分と全体もしくはその相互からの注目の
振り向けなどにみられる認識の構造とか。
さらにその部分と全体は、多重層構造を形成している。
などという大筋の理解においては、なんら新しくも、特異的でもなく、
さらには革新性のかけらも感じる事はできなかった。
なぜなら、ただそれだけなら、複雑な言語化できない知識もしくは、知の構造
の発見とその解明と言う事でしかなく。それでは、われわれが素朴に依拠して来た
近代の、それも中心的存在と目される科学的方法の範疇に入ってしまう。
私が求めるのは、それらの我々が前提としてきた世界観(パラダイム)の変更を、
促すものなのであって、栗本氏の諸説はそれまでは充分に答えるものであったが、
「意味と生命」においてはすぐには、それが見いだせなかった。
私は、とほうにくれながら、読み進めて行ったのだった。
といったところが、「意味と生命」における暗黙知の
まずはじめの感想であったように思える。

しかし、何かしら、端々に引っかかる、表記が見受けられたのである。
例えば──

「暗黙知─略─その行為全体の目的は、人間が自らの宇宙における存在論的位置を知ろうとする事であり、意味は(物理的定義ではない生理的プロセスとしての)身体を外界に空間的に拡大することであるから、意味形成の中に我々が感知することのできない体内の(原理としての)メカニズムが働くプロセス及びそこに含まれている進化や発生の原理を引きずり出して看取するためにあると言ってよい。勿論、その進化や発生とは実体的な対象ではなくて、それを制御している原理それ自体のことである。」

「注目を通じた焦点をある原理の上位に向ければ、その原理のレベルの細目は物理的存在であるかのように立ちあらわれるし、上位のそれは虚構の存在であるかのように見える。」

「痛みやかゆみの感覚は、既に実はある種の相互作用が物理的身体の上に加わってはじめて生まれる。それが物理的身体と言う単一の層から生まれる事はない。なぜなら我々の知覚過程一般はつねに無意識的なものであり、我々はその外在的形態としての感覚を自ら選択できない。」

「痛みやかゆみのイメージ形成と身体の運動とは、同じものではないかという疑問も設定される。少なくとも、もしそうであるとすると、我々の暗黙知の理論はすっきりしてくる。そしてその場合、日常的には同じレベル内のイメージとしての感覚の拡大として運動が存在すると考えればよいのである。我々の身体が運動しているというのも実は感覚なのではないか。」

等々である。
これらを通じて、我々が素朴にその存在の根拠の前提としている、体験や経験の依拠するところの、
身体といったものが、実体的にも虚構的にも感知されるという事があることにおいて、
まずはそれが対象それ自体の問題なのではなく、暗黙知と言う我々の認識の構造にあるという事を示唆する。
しかし、暗黙知が「知」と言ってしまっているところに、はからずも隠蔽されてしまっている、
システムや原理の構造をも意味するところも視野に入れると、さらには世界や存在というものが、
(原理的には)実体的にも虚構的にも感知されるという事があることをも意味するように思われる。
といった事がきっかけとなってさらに、読み進んでいく事になったのだった。

それらはやがて、部分とそれによって構成される全体というものが、多様で多重な様相のもとに、
人(パーソナルコミットメント)をも含めた相互作用によって、
ゲシュタルト的に“形づくられている”と考えることをもって、
新しいアプローチの方向を示しているのではないのだろうかと、
私には思えてくるのだった。続きはまたの日に。
今回はもう少し、どこからの出典であるのかなどの開設等もしておこうと思う。

これは、現代思想1986年3月号(増項特集=マイケル・ポランニー 暗黙知の思考)
からのものである。
現代思想という文脈において、マイケル・ポランニーが注目されるようになったのはこのころからだったのではないかと思う。
もちろん、栗本慎一郎氏よる注目によるところが大きいと思われるが、
まだこの時は、栗本氏自身の手による「意味と生命」(暗黙知理論から生命の量子論へ)と題された、暗黙知読解から、身体論、生命論への展開する試みはまだ世に出されてはいなかった。
この特集号は、栗本氏の「非決定とイマジネーション」という論文はもちろんのこと、他にも橋爪大三郎(社会学)、土屋恵一郎(法哲学)、室井尚(美学)、
村上陽一郎(科学史)、慶伊富長(化学)、秋山さと子(ユング心理学)
等の方々も寄稿されており、「暗黙知理論」がいかに超領野的展望をもった
理論であるのかを、うかがい知ることができる。
個人的には、「意味と生命と過剰」と題した栗本慎一郎氏と
丸山圭三郎氏との対談まで掲載されているのだから、
盛りだくさんの企画であったことは言うまでもない。
さて、先日に引き続き、記載しようと思う。


〈暗黙知〉と〈共通感覚〉マイケル・ボランニー読解序説 中村雄二郎

《およそ語られうるものは、明らかに研られうるものである。そして論じえぬことについては沈黙しなくてはならない》(『論理哲学論考』自序)。また、《示されうるものは、語られえぬものである》(同、四・一二一二)。徹底した論理主義の立場からこのように説いた初期ヴィトゲンシュタインは、自然言語の働きを本当に評価しようとする立場に移行するとき、語られえぬが示しうるものにはっきり向かい合わねばならならなかった。他方ポランニーは、《われわれは、語りうることより多くのことを知ることができる》(『暗黙知の次元』)と言っている以上、問題の重なり合いは明らかであるが、その重なり合いはどこまで及ぶだろうか。目安としてとりあえずその要点を捉えておきたいと思ったところ、幸いなことに、J・H・ギルが「語ることと示すことーヴィトゲンシュタイン『確実性の問題』の根本テーマ」(10,191974)のなかで、両者の問題の重なり合いを六つにまとめてとり出している。それを見ておこう。つまり、ここでギルは、後期ヴィトゲンシュタインの主要論点を次のように捉え、それらがいずれもポランニー的問題であると言っている。すなわち、一、われわれは自分たちの語りうるものよりも多くのことを、いつでも知りうるし、事実効っているはずである。二、このような知は、われわれの個人的(人格的)裏づけをもっている。三、根本的な事実についての疑いは、問題外とする。四、それにのっとってわれわれが推論する認識論的枠組の実在性と性格は、焦点的にも捉えられなければ、明示的に分節化もされず、われわれの行動のうちにただ副次的にあらわれるだけである。五、合理的な手続きが正当になりうるのは、ただコミツトメントによってだけである。コミットメントが世界のなかでのわれわれの存在様態を形づくるのだ。六、以上の考えのどれも、真理探究の合理性そして/あるいは実行可能性を弱めるものではない。これらの考えによってのみ、真理の探究が可能になり、意味あるものになるのだ。
 このギルの指摘は、はじめからかなりポランニー的な用語によって後期ヴィトゲンシュタインの論点を捉えているきらいがあるが、内容的にはそれで歪められてはいないし、捉え方としてもなかなか的確だと思う。そして、これらの六つの論点のうち、ポランニーの暗黙知や人格的知(個入的知識)の問題と、とくに深くかかわっているのは、第一と第二と第四の三つであり、またその三つにおいて、ポランニーの暗黙知や人格的知と私の共通感覚やパトスの知が交錯してくるのである。また、それらは相互に絡み合って分かちがたいが、それぞれ言語、身体、相像力の問題にかかわると言っていいだろう。

(つづく)

 ここまでは序文のようなものかもしれない。
 次は、中村雄二郎氏による、暗黙知の解説のような内容に入っていく事となるが、
 中村氏は、ポランニーの理論はわかりにくいというが、中村氏の解説も決して
 解りやすいとうはいえない、と言うよりも元の暗黙知が解りにくいのだから
 しかたがない。とりあえず進めるとして、次回は自分がどのように
 解りにくかったかを書く事で、解説のごときを試みたいと思う。
 では、続きを…。



 そこで、言語・身体・想像力をめぐって、ポランニーの〈暗黙知〉や〈人格的知〉、それらと私のいう〈共通感覚〉や〈パトスの知〉の交錯するところを明らかにしたいのだが、そのためにはまず、彼の〈暗黙知〉について、できるだけ納得いくかたちで捉えなおしておこう。ポランニーのいう暗黙知の働く範囲は自然科学の研究にまで及ぶが、その働きはとくに、人相の見分け方や高度の経験にもとづく医学的診断などのうちによく見られる。それらにおいては、個別的な知識の一々が不必要なわけではないが、それらがただ.ばらばらなものとして存在する限り、精妙な暗黙知としては働かない。必要なことは、それらの個別的な知識の一々が一つの全体のなかに、また一つの全体として統合されることである。人相の見分け方や医学的診断のような領域に典型的にみら右心能力が暗黙知と呼ばれるのは、その能力は、語りうることより多くのことを知っているからである。そこで暗黙知の構造であるが、それを私たちは次の三項から成る三角形として捉えることができる(*)。第一項とは、要因の細目のことであり、それに対する第二項のほうは、統合化された全体として捉えることができる。また第三項とは、第一項(要因の細目)を第二項(統分化され全体)に結びつける個人のことである。

(*)以下の暗黙知についての説明は、『暗黙知の次元』での三項的な把握を中心にし、他の諸著でのポランニーの言説をふまえた上、私自身が捉えなおし、再構成したものである。だから、第一項を〈要因の細目〉、第二項を〈統合化された全体〉としたのも私の捉えなおしによるもので、それらはそのままのことばとしてポランニーのなかにはない。個々の著書での説明がこんなに部分的な著者も珍しい。

このように暗黙知は、分解して示すとすれば、右のような三項の結びつきとして表わさざるをえないが、実際には三項は一体化して働いている。第三項(個人)によって結びつけられると述べた第一項(要因の細目)と第二項(統合化された全体)の関係にしてもそうである。そしてそのことを前提とした上で、暗黙知が働くための第一項(要因の細目)と第二項(統合化された全体)の関係を捉えると次のようになる。
 まずひと(第三項である個人)は、第一項について知っているが、それは、第二項に注意を向けるためには、第一項について感知(意識)していることを手がかりにせざるをえないからであり、またそのようなものとしてである。これが第一項(要因の細目)と第二項(統合化された全体)との基本的な関係である。そしてこの第一項と第二項の関係は、暗黙知の働きにおいて、第二,項を知るためには第一項が手がかりとしてどうしても必要なので、〈手がかりとそれが示すもの〉との関係である(それを以ってポランニーは〈論理的な関係〉と言うのだが、のちに述べるように、これは不正確な言い方である)。また、第一項と第二項の関係は、感知しながらそこから注意をそらすものと、そこへと注意を向けるものとの関係でもあるので、〈から……へ〉(from-to)関係と言うことができるし、さらに、〈から……へ〉の在り様を考えると、それは身近で基本的なものから遠くの末端的なものへを意味するので、解剖学の術語を使って第一項を〈近接項〉(proximal term"基体項とも訳される)、第二項を〈遠隔項〉(distal term'末端項とも訳される)と呼ぶこともできる。二つの項をポランニーがなぜ、解剖学の術語でこのように呼んだかについては、彼自身十分に説明していないが、要因の諸細目と統合化された全体をそれぞれ基体的なものとそれから出発して或る実現を見たものとして捉えていることはたしかである。さて、暗黙知における第一項と第二項は以上のような関係(これをポランニーは〈機能的側面〉と呼んでいる)だけにとどまらない。次に──これもさきに述べた基本形から出てくることだが──重要なこととして、ひと(第三項たる個入)は、暗黙知においてその第一項(要因の細目)を第二項(統合化された全体)の現われ(appearance)のなかに感知しているということがある。暗黙知においては、ひとはあるものから他のものへ注意を向ける場合にも、実は前者を後者の現われのなかに感知しているのである(このことをポランニーは暗黙知の〈現象的側面〉と呼んでいる)。


(つづく)
要望があったので、
ひとまず、試みに途中まで、書き写してみる。

〈暗黙知〉と〈共通感覚〉マイケル・ボランニー読解序説 中村雄二郎

かねがね、マイケル・ポランニーの〈暗黙知〉の考え方は私の〈共通感覚〉の考え方とよく似ていると思っていたが、さらに彼の〈人格的知〉(〈個人的知識〉とも訳される)も私の〈共通感覚〉の発展としての〈パトスの知〉と通じるところがあり、ポランニーの考え方と私の考え方では交錯するところが実に多い。しかも、その交錯するところに現代哲学の大きな諸問題が横たわっている。だから、余計にポランニーは私にとって避けてとおることのできない存在なのだ。ところが、ポランニーは私にとってそういう存在でありながら、接近しようと思ってもなかなかうまくいかない。まったくこれはなんという、取っつきにくく、掴えにくく、突っこみにくい理論だろう。それだけ在来の、既成の思考方法とちがうといえば、そうにちがいないが、それにしてもこんなに立ち入りにくい理論は少ない。ふつういう意味で術語や表現が難解なわけではないし、議論が抽象的な話に終始しているわけでもない。それなのに、ポランニーを扱うと、多くの場合に、そのまわりをぐるぐるまわるだけになってしまうのである。ポランニーの理論に共感し、それを高く評価してきた人々は、その点についてどう考えているのだろうか、と思ったら、その点に率直にふれた、ちょっと異例というべき、変わった文章があるのを知った。それは、マイケル・ポランニーに捧げられ、彼の思想を多くの人たちが論じた論集の序論だというのに、次のようなことばで書き出されているのである。《ポランニーの主著たる『個人的知識』(『人格的知』)は腹立たしい本である。それは好感のもてる本どころではなく、およそその反対だ》。この論集はT・A・ラングフォードとW・H・ポティートの二人が編者となった『知性と希望マイケル・ポランニーの思想について』(一九六九年)であり、問題のその序論は、「『個人的知識』を読むための最初の手引き」と題されている。今、引いた個所のつづきを、もう少し紹介しておくと《この本は或る読者たちにとっては、大した知的鋭敏さがなくとも防げる全体的な立論や幻影に反論した本に見えようし、他の読者たちにとっては、それはあまりによく出来すぎているので正しくなく、あまりに明白なので重要でなく、あまり簡明なので愚か者でも相手にしないという代物だ。さらに他の読者たちにとってはどうかというと、この本からは事物の包括的な見方は与えられるが、どんなに根気よく思いやりのある読者でも、苦心した挙句に手に入るのはただ束の間の一貫性をもった見方だけである。また、読者の最初抱いた躊躇が克服されて、この本の中心的主題や全体的企図が明確にされるようになったところで、それらは根本的にいって不安定なことを露呈するだろうし、解体するのが落ちだろう云々》。こういった調子でこの序文はまだ延々とつづく。そのもう少しあとのところまで掻いつまんでおくと、そこではこう言われている。読者はこの本を読みすすめていくと、明記されていない道に微妙なかたちで引き入れられ、それまでに要求されていた理論上の決然とした態度も、また著者の人間的な誘いにもとづく豊かな出会いも、捨てさせられる。そういうわけで、この本は或るレヴェルで見るならば、無意味であろう。しかし他のレヴェルで見るときには、この本は新しい種類の意味を,示唆していることを知らなければならない。この新種の意味は、既成の見方や立場からでは到底信じられず、ただ怖れられるだωなのだ、と編者たちは書いている。たしかに、一般的にいってポランニーの叙述には、一種の混乱があり、繰りかえしが目立ち、枝葉末節への囚われがあり、あいまいなところが少なくないが、それにもかかわらず、まぎれもなくそこには多くの新しい着眼があり、すぐれた洞察がある。いったいどうしたら、それらを理論的に掴みなおし、先におしすすめることができるのだろうか。私の見るところ、ポランニーの理論が分かりにくいのは、その着眼、着想の数々を一挙にいろいろなレヴェルに当てはめようと欲する一方、そのときどきに個別的な或る事態を示す概念を好んで用いるためである。したがって、彼の言っていることをただあれこれ集めてム、立ち入ったかたちで包括的に理解することはできない。そこ0必要なことの一つは、彼の理論の諸論点の基本形態を捉えることであり、もう一つは、問題を共有する他の諸理論との異同をとおしてあいまいな部分や側面を明らかにすることである。ところで、現代哲学のなかですぐにマイケル・ポランニーとの問題の重なり合いを感じさせるのは、ほかの誰よりもヴィトゲンシュタインである。

(続く)
『共通感覚論』について少し書いてみる。
共通感覚とは、もうほんとに平たく言って“常識”というものを、感じ取る感覚といっていいだろう。しかし、ここでいう“常識”は「社会規範」や「一般教養」といった部類の、知識として身につけれるような、あるいは私たち自身が依拠しなければならないモノとは少しちがう。このような一般的な常識に対する我々のいわば“常識感覚”とでも呼べそうな、既存の“常識”に従属的にはたらく感覚とはちがい、むしろそれらの“常識”を必要に応じて自在に使い分けたり、さらには“常識”といったものの成立過程においてさえはたらく重要な感覚ということなのだと思う。
 つまり“常識”といった社会生活にはなくてはならない規範をよりよく使いこなすには、普段我々が行っている従属的な“常識感覚”ではなく、もう一歩も二歩も踏み込んだ“共通感覚”といった、いわばメタ感覚とでもよべそうなものでなくてはならない、と言ってるように思える。また、私たちの“常識”はそういった感覚によって生み出されたものが、惰性化し硬直化したもので、それは時に応じて“共通感覚”によって刷新されなければならず、したがって“常識”と“共通感覚”はいわば弁証法的な関係にあると言う事なのだと思う。

そもそも「共通感覚」という言葉を知ったのは、木村敏(現象学的精神病理学)氏の「異常の構造」(講談社現代新書)を読んだところによる。当時絵を描く事(ことに抽象絵画)を通じて、「確かなもの」とういうものが自分の内側(感覚)にあるのだとうことに気づいていた私は、心理学を専攻する知人(正確にはその本棚)を切っ掛けとして、心とか感覚とか認識と言った事が、物事について考えるのに(現象学的な意味合いにおいて)非常に重要なものではないかという発想をもっていた。
しかし、一方で抽象絵画の開眼とそしてそれへの理解が進行するにつれて、それらがいったい美術や芸術といった文脈以外の一般にとってなんの意味があるのかを考えていた私には、木村敏氏の言う
「共通感覚が個々の感覚に含まれていながら、それらの感覚に固有のものではなく、他の種類の感覚にも移し変える事の出来るような、ある種の感触ないしは気分であるという場合、これはこの共通感覚が個人の有機体の内部に生じる感覚生理的なプロセスではなく、すでに個人内部の領域をはみ出した、自己と世界との関係の仕方にかかわるものだと言う意味をもっている。」
このような「共通感覚」は至極有用な論点であった。

私にとっての「共通感覚」は、抽象絵画への開眼のときに働いていたものと近いものであると言う考えをもっている。そのとき私にはパラダイムシフトとかゲシュタルト転換といった内容のものが発生していたのだと思う。だから『共通感覚論』の副題が「知の組みかえのために」とあるのは、非常にすんなり入ってくる。哲学書にこんな事を求めるのは間違いなのかもしれないけれども、『共通感覚論』を読んでいても、ゲシュタルト転換やパラダイムシフトに通じるような感覚が生じないのだ。全部が理解出来ているとは言わないけれど、書かれている内容はどれも説得的で、優れたものであると思う。けれども今ひとつ、私においてその精神にパラダイムシフトを生じせしめ、共通感覚を呼び覚まさせてはくれていなかったように思う。それが、私をして今ひとつ『共通感覚論』にノッて行けなかったところなのではなかったかと、今さら思い起こされるのだった。しかし、今またこう書きながらもパラパラとめくっていくと、自分が読めていなかったと思われるところも感じられる。また、最後の方に残された問題として、リズムのことや場所のことについて触れてあり、その事は気になってずっと記憶に残っていた。それが、今少しずつ読んでいる「かたちのオデッセイ」において引き継がれているようで、非常に興味深い。「かたちのオデッセイ」では、私が発想としては持っていた事柄との類縁性も感じられるように思っている。例えばそれは、私のいう「ゲシュタルト」とそこで語られている「モルフェ」は近いものであるように思う。出来れば、近いうちにそのようなことも書ければ良いかなと思うのだった。
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