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発病しないための試み。
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久しぶりに書いてみる。まだ、仕事が落ち着いていない。
現在、先日行った市立図書館で
「かたちのオデッセイ/中村雄二郎」を見つけたので借りて読んでいる。
1991年発行なので随分たっている。実は、この本の事は知らなかったが、当時はここに書かれている事に、もっとも関心を持っていたので、リアルタイムであったらもっと感動は大きかったかもしれない。
なかなかおもしろい。興味深い。かつて読んだ「共通感覚論」のことなども、思い出したりもしている。

通勤電車で読んでるぐらいなのでなかなかすすまない。
通勤には往復3時間弱かかるが、乗り継ぎが多いので、まとまった時間が案外ない。
思えばこの地に越して来たのは、子供の就学前の療育施設を求めての事だったが、
その施設のあてが外れて、無駄になってしまった。今は、もはや地域の養護学校(今は、別の呼び方があるようだが忘れた。)に通って、中学になってしまった。
おくれながらもなんとか、成長してくれている。
この地は、住み辛く気に入らないのだが中古の家を格安(ローンは家賃より格安)で
購入してしまっているので、おいそれと引っ越し出来なくなってしまっている。(笑)

今日、かつて「共通感覚論」において、今ひとつノッていけなかった、事を思い出したりした。その理由が、最近以前よりはっきりしてきているように思ったりしている。次は、そのことについて少し書こうと思うのだった。
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今朝、たまたま見たNHK教育テレビの、
新日曜美術館の内容がとても興味深かったので、ここに記す。
夜8時からも同じ内容のものが放送されるで、取り急ぎ書いてみる。
ゲスト(といっていいのだろうか)の藤原正彦が
日本画家の福田平八郎について語っている。
藤原正彦は数学者であるが、
先頃ベストセラーになった「国家の品格」の著者でもある。
私はそのあたりのことには、詳しくない。
おもしろいと思ったのは以下の内容だ。
日本人は数学の理解に明るいという。
それは、目の前のささやかな光景から、世界全体へと
イメージを膨らませる事ができるからだそうだ。
部分から、全体を想像する事ができる。
そして全体を、部分というようなものに
コンパクトに凝縮できる。
というような、事を言っている。
そして、福田平八郎の絵もそういう絵だという。
この「部分と全体」のはなしを聴いていると、
暗黙知理論(マイケル・ポランニー/栗本慎一郎)
に近い内容であることに、非常に興味を持った。
実は私は、日本画について最近興味を持ち始めている。
その理由も、藤原正彦がここで述べているようなことに、
とても近いように思うからだ。
(この辺りのことは、いずれこのブログでも書く予定にしている。)
てなことで、ここに記した事に興味をお持ちの方は、
是非ごらんになられると、良いだろうと思う。
とりいそぎのため、乱筆乱文ゆるされたし。
妄想と幻覚を一緒にしてはいけないのかもしれないが、
ここに、精神科医の妄想についての一つの見解を紹介しよう。

「統合失調症の妄想は、けっして浮世離れした非社会的、非現実的なものではなく、
むしろ、みずからの体験に社会(共同性)をはらませようと努めた結果の、?その意味できわめて社会的で現実的なモチーフを離れないものなのです。…略…?妄想とは「現実的」なものなのですね。現実を逃避して非現実のなかに逃げ込むのが?妄想ではありません。」(こころの本質とはなにか/滝川一廣)

我々の認識はゲシュタルト的性質をもっていると述べました。
そして、このゲシュタルトとは全体的な意味付のもとで、
ものを見るという事だと述べました。
その今見ているであろう部分に目を向けながらも
全体も見ている、イメージしているという事でもある。
例えば、この文章ひとつとってみても、その単語や文節に注目しながらも、
常に全体として何を言わんとしているのかや、
あるいはもう一方で、自分の記憶にあるその単語に関する全体像の
どの部分と関係あるのかなどを、意識しつつ読んでいるのが、
人の認識構造であるということなのだが。
実はこの全体像は、それを構成する要素が全て揃っていなくても、
思い浮かべられ活用されているというのが、当たり前でありながら
それ故に誰も注目されないけれども、不思議で重要な事なのです。
つまり、全体を構成する要素が揃っていないにもかかわらず、
全体像が思い描けるというのは、そこに、欠けている部分に、
仮説的に虚構の何かを設定して、つじつまを合わせるような事をしている
という事なのだ。

それが、幻覚や妄想のひとつの正体だと、先の精神科医の内容から
推測可能なのではないかという事なのだ。
我々は何らかの形で常に全体というものを意識して行動している。
例えば、「仕事をしなければ給料がもらえない、
お金がなければ生きていけない、仕事はこんな仕事をしている。等々」
社会の中で生きている自分という事を思い描いたものでも、
充分その意味での全体である。
統合失調症においては、そういった全体というものが、脳の疾患か
何かで上手く構成出来なくなった状態だと言えるのだと思う。
だから一般より、そのつじつまの合わせ方が、強引に、大仰になり
おかしなものになるので、自分のなかではつじつまが合わせられても、
他者との間でつじつまが合わなくなってしまう、
という事態にいたっているのだと思う。
しかも、彼らの場合その妄想の形は(対人的社会的)関係妄想が多いのだが、
それは、他でもない社会性を回復しょうとするが故の、
全体性への志向に動機づけられたものという事ができ、
その意味で、「現実的」なものなのでしょう。

また、ゲシュタルトにはこのような側面を持っている。
それは、一枚一枚は静止画であるにもかかわらず、
連続して見せられると動いて見える。
二つの光源を交互に点滅させて、その点滅のスピードを上げていくと
その間に光の線が見えるようになってくる。
あるいは、我々は、左右の目による視点角度の違う画像を
全体像へと統合しそれを奥行きのある3次元空間認識と知覚している。
(つまり、目の前のコップをつかめるのはこれによっておよその
距離感がつかめているからだ。)
あげだすときりがないでこのへんしておくとする。
これらはその性質上、実体ではない。虚構の存在だ。
がしかし、ネガティブな意味での幻覚として、切り捨ててよいものだろうか。
そうするどころか、それなくしては生きていけない部類のものもあるではないか。
いや、どんなに頑張っても無視する事も切り捨てる事もできないものでもあるのだ。
(つづく)


多重フレームモデル

脳には機能モジュールが存在することは疑う余地はないが、それらの機能モジュールの詳細がすべてわかったとしても、心のモデルがわかったとは言いがたい。脳の機能モジュールが全体としてどのように働くのかということを明らかにするためには、脳の内部だけではなく身体との相互作用、ヒトの群れ全体を視野に入れた、知のメカニズムをモデル化する必要がある。そのための一歩としては脳の機能の一つ一つに焦点を絞るよりも、脳の大まかなモデルを想定してできるだけ簡単に表すことにより、他のヒトとの相互作用を論じることが賢明と思われる。そこで脳科学者の澤口俊之が提案した脳のモデル、すなわち多重フレームモデルを採用したい。

多重フレームモデルは脳内における機能モデュールの並列性、階層性を実現するための生理学的なモデルであり、次のように定義されている。

1 コラムは数万個の神経細胞を含み、幅0.5〜1ミリ、高さ2〜3ミリの円柱
(ないし直方体)状の形をして、大脳新皮質の表面に対して垂直に並ぶ。

2モジュールはいくつかのコラムが集まったものであり、
 フレームはモジュールが階層的に配列したものである。

3フレームは入力系、出力系と両者を統合する統合系をもつ。

4入力系は視覚野をはじめとした一連の感覚領野群、
 出力系は運動領野群、統合系は連合野の領野群により形成される。

5答フレームはさらに小さな「サブフレーム」に分けられ、
 そのどれもが同じような構造をもつ。つまり、入れ子構造となる。

6サブフレームはさらに「サブサブフレーム」に分けられ、
 いいかえれば、どの拡大卒でも同様の「フレーム構造」がみえる。

 ワーキングメモリのところで示したフスターの仮説も階層構造を示しているが、前頭連合野を頂点としているため意識的で高次な行動のみに限定される。澤口のモデルは意識のみではなく、身体運動を伴う無意識的な活動や、身体運動を伴わない意識的な活動などのすべての知の活動に応用できる汎用性がある。ここで記憶に留めておいてほしいことは、多重フレームモデルによれば、脳という身体の部位において外界の環境から得られる情報を感知し、統合し、制御する機能が局在し、それらが並列階層構造をもっということである。多重フレームモデルは後に述べる暗黙知理論を実現するための脳神経科学的な基盤となりうる。暗黙知理論はさらにその後に述べるミーム論を基礎づける。
先に述べた認識のゲシュタルト的性質に関する
具体的資料をここに紹介したいと思う。

音楽の基本的体験というものは(どんな基本的体験でも同じだが)ホリスティックあるいはゲシュタルト的性質をもっている。それを痛切に感じたのは、もう何年も前、友人がジャズについて教えてほしいと頼んできたときのことだ。頼みを聞き入れた私は、いっしょにレコードを聴きながら、その曲について話し合う事にした。曲の途中で、アルトサックスの音を聞いてみてとか、ベースの音を聞いて、トロンボーンに耳を傾けて、と指示をする。ところが友人は、それぞれの楽器が弾いているメロディーを聞き分けることが出来なかった。まして、そのメロディーラインについて私が指摘していたポイントなど、分るはずもなかった。友人は曲全体の感じはとらえることはできたが、それをいくつもの楽器が演奏する音に分け、別々に認識するのは難しかったようだ。—略—
大脳新皮質には、韻律の整ったものも整わないものも含め、リズム、音色、休止、メロディーの形状、ハーモニーを感知するような特化された領域がある。ところが音楽のこれらの要素を他の要素と区別してはっきり聴き分け、また自分でコントロールできるようになるためには、特別な文化的「チューニング」が必要だ。文化的進化の長いプロセスを経てはじめて、リズム、メロディー、ハーモニーのコントロールをはっきり区別できるようになる。(音楽する脳/ウィリアム・ベンソンより)

ゲシュタルトという概念は今後、このブログでも重要となると思われ、
しかも以外と知られていない、知っていても理解が不十分ともおもわれるので、
考察してみた。
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