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発病しないための試み。
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昨日の夜ニュースを見ていた。
小沢氏が「高速料金無料化を言いながら、一部値上げになるのでは、国民の理解は得られない」という旨を述べたところから、閣僚(前原大臣)とのあいだで対立が起きているというニュースがあった。

えぇ…。どういうことや…。
すかさず、yome曰く。
「小沢は、(内容が内容だけに)すんなり値上げを通したんではまずいと見て、対立する意見があり議論が闘わされているところを見せたのだ。」と

そうしたところ今日のニュースで小沢氏は…。
「最終的には政府、突き詰めて言えば首相が決定することだ」と行ったと言う。

yomeの言ってるのもまんざらではないのかも(笑)。

ウチのyomeは公立短大(実は栗本慎一郎が初めて教鞭をとった学校)の経営学部卒だ。
しかも学費から何から全部自力で調達した今時珍しい苦学生だ。
自動車免許も、自動二輪の免許も自力で警察でとった。

私よりも社会性が有るといえるのだ。

だから、気が強いのだ。(笑)
でも、子煩悩で(私の連合いにしては)美人だから許す。(笑)


私が思うのは、小沢氏はストレートなところがあるので、自分の受けとめた
「(料金)無料という前提で選挙戦を戦ったのに、
実質値上げというばかなことはあるかという声が充満している」
という旨をそのまんま、(内閣に)伝えているのだと思う。

そんな風に思うと、世間は、マスコミは、批判し過ぎではないのかと思う。

いや、民主党(的)改革について行けない、
あるいは抵抗しているのだと見て良いのだろうと思う。

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「自閉症の現象学」について少々。

私が自閉症に関心を示すのは、
他ならず私の子供が高機能自閉症だからだが、
私自身も(フィクショナルな理念値としての)定形発達者と比べれば、
自閉症者よりの人間だと言う事が出来るのだと思う。

子供がそういった発達障碍ということもあり、いくつもの関連本を読んで来たが、
著者本人も「内側から経験構造を明らかにしようとする」と述べているように、
これ迄のものと比べ、かなり肉薄出来ているように思う。

多少の異論がないわけではないが、
最初に興味を引かれた部分を、少し紹介してみたいと思う。

「自閉症の現象学」より

次に、この感性野の純粋な自己組織化を情動性という側面から考える。先ほどのウィリアムズからの引用で、紅色の街灯に悦惚とする場面がよい例となるだろう。視線触発もなく対象もない世界では、対人関係の関係する感情は触発されない。つまり憎しみや愛情、悲しみといった感情はなくなる。出発点として、情動性のなかで少なくとも快と不快が保証されるだろう。快と不快は、感覚の調和と混乱および強度の受容の度合いに基づくと推測される。つまり快と不快、調和と混乱から体験世界が成り立っていることになる。しばしば見られる自閉症児の極端な偏食は快不快の原理が裸出していることを示している。不快なものは排除・回避し、快適なものを摂取するのである。以上の特徴の結果、しばしば「事物との一体化」と言われるような状態が生まれることになる。これは自己感のない状態で単純なパターンだけが意識を占めている状態である。
しばらくすると私は、自分が望むあらゆるものに一体化できるようになった。例えば壁紙やじゅうたんの模様、何度も繰り返し響いてくる物音、自分のあごを叩いて出すうつろな音などに。人の存在さえ邪魔ではなくなった。飛び交うことばは低くうなる雑音となり、話し声は、寄せては返す音の連なりでしかなくなった。
多くの高機能自閉症を持つ人が、この体験を美しいものと表現している。感性的印象が運動感覚や視線触発と結びつくことなく、そして言語とも結びつくことなく意味を生成するとき、それは美と名づけられるのであろう。このような世界はまさにカントが『判断力批判』で議論したものである。カントが示したとおり、美とは(形を作り出す力である構想力において)感性の自己組織化が生み出す快である。つまり概念による規定なしに(そして同時に自我のかかわりなしにひとりでに)感性的な形が生成する。自ずと形が生成し変化する中で、経験は連続性を保つ。この経験そのものは否定性の介在しない肯定的なものであり、本人にとっては快適でポジティブなものである。帯同行動・こだわり・感覚遊び、血とと呼ばれる自閉症児の行動、すなわち、頭を叩き続けたり、水滴を見続けたり、ひもを回し続けたり、ミニカーのタイヤを注視し続けたり、といった同じ感覚を再現する行動は、それ自体としては障害でも欠損でもない、快適で美しい体験のはずである。これを入間の可能性のひとつとして位置づけることができる。定型発達の人においても、風景に見入っている場合のように、条件が揃えばこれと似た美的触発の世界が成立する。


コンディヤックをはじめとして、カント、ヘーゲル、フッサール、メルロ"ポンティなど、近代西欧の哲学者の多くが感覚を議論の出発点としてきた。しかし実は自閉症児にとってのみ、純粋な感覚の世界が経験の出発点となる。定型発達にとっては純粋な感覚というのは出発点ではなく、抽象作用の結果得られる帰結である。言語や自我、悟性、対人関係をかっこに入れたときに出現する可能性の極限値の一つである。たとえば二〇世紀の抽象芸術の冒険は、この極限値を可能性として追求したも…のとして特筆されるだろう。カンディンスキーの神話的な逸話によれば、写生をしていたキャンバスを間違って横向きにおいたときに、「なんだかわからないもの」が描かれているのを見て、つまり事一物の対象性が剥奪されることで、彼は抽象の世界を発見することになる。対象から出発して、自閉症児と同じような純粋な形態と色の戯れへと遡行するのである。そして自閉症児の描画は、一見文化的な対象を描いているとしても、その文化的な意味は持っていない(第四章の写真を参照)。純粋に形象に迫ろうとする衝動を持っている点で、セザンヌが模写を通して事物の対象性を剥奪し、図形へと還元しようとした衝動とよく似ている。あるいは先ほどのウィリアムズの紅色の光に没頭する体験は、モネやターナーのもつ、知覚野を色彩の運動に還元しようとする衝動とよく似ている。ウィリアムズが、街灯の知覚から紅色の触発へと遡行するように、モネにおいては睡蓮が水色の色彩の触発に、ターナーにおいては海の嵐が色彩の運動へと遡行するのである。もちろん画家たちは20世紀以前からそのような純粋な美的触発へと誘惑されていたのであり、カラヴァッジョの斜めに注ぐ光やフェルメールの黄色を思い起こすこともできる。
純粋な受動的総合としての自閉症の世界ところで、フッサールは、音がひとりでに連合してメロディーを形成し時間的連合)、いくつかの光の瞬きがひとりでにひとつの星座をなす(空間的連合)仕組みを詳細に明らかにし、受動的総合と名付けた。感覚刺激に没頭する自閉症児の世界は、このような感性野がひとりでに組織化する現象が、純粋な姿で実現している状態である。フッサールの記述は、「ヴァイオリン」や「遠くの街の明かり」といった自我の作動を前提とする文化的事象として記述せざるをえなかった点で純粋ではないが、これは必然的な結果である。言語能力を持つ現象学者にはこのようにしか記述できないのであり、反省という方法の限界である。
自閉症児の感覚遊びにおいて、フッサールが描こうとした「受動的総合における自我不在」の意味が明らかになる。受動的な感覚連合に身を任せるとき、子どもは「ミニカー」という文化的な意味を持たないばかりでなく、自己意識が成立していないため、文字通り「われを忘れて」、タイヤと大人が呼ぶ黒くて丸いものの回転に没頭する。すでに見たように、彼らは運動感覚への気づきを持ちにくいので、自ら動かしているという意識を持っていないと思われる。このような能動的自我の解除と身体的な自己感の欠如、あるいは自我未成立の現象こそが、感性的印象が自己組織化する受動的総合が裸出する経験である。
自我を解除した状態で同じ感覚を反復する行動である常同行動を、自我を持った大人が観察したときには、(自我が現実世界とのコンタクトを失って)空想に没頭しているようにも見える。そこで解離現象として記述されてしまいがちであるが、実際には自我からの解離という否定的経験ではなく、自我が生まれていない段階での感覚の自己組織化に充足した状態である。こうして常同行動を、否定性を介さずに記述する現象学的な基盤が得られた。美的触発であり、感性野の純粋な自己組織化としての受動的総合がそれである。 

やっと見つけたと言うべきか。

私はかねてから、自閉症というものが、
かつて分裂病(統合失調症)の研究を通じて
多くの思想哲学が生まれて来たような、
位置に置かれるのではないかと思っていた。
(とっくに、そう思っている人もいるでしょうけど。)

そのようなものが登場して来たように思う。


「自閉症の現象学」村上 靖彦 (著) 勁草書房 (2008/5/26)
これは、今、図書館で借りて読んでいます。
興味深いです。

『自閉症論の原点——定型発達者との分断線を超える』
─果たして自閉症は障害なのかという疑問を、常に抱いてきたからだ。次のように言い換えることも出来る。自閉症こそが人間存在の原点を照射しているのであり、「正常」に発達を遂げる過程は、むしろ原点からの逸脱として位置づけられるべきではないか。そう考えることが出来るなら、自閉症者と定型発達者との間の分断線は消え去ることになる。ただ、原点の近傍に位置する自閉症者と、原点から遠ざかり大切な何ものかを失っていく定型発達者という、相対的な違いが残るだけだ。─

これは、未だ読んでいません。


ついでに見つけたブログを…。
「発達障碍の意味するところ」


 

以下は以前のブログから。
前回の補足の為と、エクスポートできないので保存の為もあって書き写します。

本能というのは、いわば標準装備みたいなもの。最初っから着いていて、非常に便利だ。しかし、標準装備である以上適応範囲は、対応能力は限られている。人間は、この大半がオプションみたいになっていて、後から学習したりする事で、装備されていく。人間は本能の大半をオプションとする事で獲得したものがある。それが文明や文化という、外在化され巨大化された身体だ。我々には、体毛はないが服がある、鳥の羽やチータの足に匹敵するあるいはそれ以上の移動手段を持っている、それら文明や文化というものを獲得する事で、この地球上での繁栄を極めてる。
人間は生理的早産だと言われており最初は、自分で這っていっておっぱいを吸う事すらできない。人間は生まれてすぐ自分の力で生きていく事はできない。だから、養護・養育が必要なのだ。人間を本能が壊れた動物と見るのは、この意味においてである。本能を、身体をオプション化できたのは、この生理的早産が原因なのだろう。

しかし、人間は本能が壊れているが全部ではない。実は人間には人とコミュニケーションをとろうとする本能が強くあるようである。人間にはミラーニューロンという、他人の行動を見たり真似たりするだけで、反応する神経があり、これによって技術や習慣や果ては文化までが伝播する事が可能となっているのではないかと目されているが。この伝播した、技術や習慣は受け入れられると一つの神経回路となって定着する。こうやって、ある集団内に共通の文化が伝播すればその集団は、皆おおむねほぼ同じような行動と習慣様式を行うようになる。このシステムがあるおかげで我々は社会を形成して、連携して共同で大きな仕事をなし得るようになったというわけだ。
しかし、このシステムは手放しで喜べるわけではないように思う。「私たちの脳は、それがひたっている文化的環境にしっかりしばりつけられている」と脳認知科学者のラマチャンドラン氏がいう。ならば、その文化に問題が発生した場合、その社会の、集団の進もうとする方向に問題が発生した場合どうなるのだ。だれがいったい軌道修正するのだ。できるのだ。

近年、自閉症はこのミラーニューロンに障害があるのではないかという仮説がある。このため社会性やコミュニケーションの発達に遅れや、そういうことに不得手だという性質が現れるという。けれども、高機能自閉症の自伝から察するに、その心理的反応はかなり普通で、一般の臨床心理学で説明がつき、そのため自閉症の異常は、比較的表層のレベルの問題であるのではないかと杉山登志郎(児童精神科医)氏が述べている。つまり、物の見え方が違うだけで、その心理的反応は正常レベルであるという事なのだ。これはしかし、先のような問題が発生した場合、むしろ有利に働くのではないか。なぜなら高機能自閉症は、文化的環境にしばられにくいという事を意味するからだ。しかも、高機能自閉症の中には一般レベルよりも、非常に高い知能を有するものもいる。それは、社会や文化の変革に対して、一役を担う事の出きる可能性を持っているということなのだと思う。いや、ひょっとするとすでに、我々の歴史上において様々な創造的な仕事をなし得た人々の中に、自閉症的傾向をもった者は、少なくなかったのではないだろうか。

先に述べたように、「人間は本能が壊れている」と、そしてさらにネオテニー(幼形成熟)だともいわれている。そういった意味では、人間は動物と比べれば、あきらかに発達障害的ハンデがあると言えるのではないか。そうだとするなら人間はハンデがあることで、文化や文明を持つ事ができたと、進化する事ができたということもできるのではないか。そうなると、自閉症的ハンデは人間的な進化の最たる部分なのかもしれない。
 

現在進行中の事柄。

丸山
―略―最初の「リンゴ」「非リンゴ」というのは、言語というよりは言語内の“語”ないしは“概念“であって、その外部と行っても、ラングという、体系内の中での外部なんですね。ところが、次に、リンゴであり非リンゴでない存在というのは、今度はランガージュの問題になってくるんですね。
そして三番目の、生命とか意識とか意味のとの関わりというのは、僕の言う、“見分け”と“言分け”の隙間で、そこにレーベンの力というものを考えているわけで、非常に僕は面白く思ったんです。―略―
栗本
―略―丸山さんの言われる第三番目の外部が最も重要な認識です。それを言わなければ言語学一般が完成するわけはない。―略―とにかく第三番目の問題を土俵に上げてみなければバタイユを理解できないデリダと同じだという事になりますよね。
(意味と生命と過剰/対談)

存在者と存在それ自体との差異こそが、対象的認識も言語的現表も不可能な真の意味での存在それ自体であること、「在るモノ」と「在るコト」の差異はこの両項が――で例えば男女の違いとか貧富の差とかの場合のように、AはBでなくBはAでないという仕方で――折半して分担するのではなく、一方的に「在るコト」の側が受け持っているということ、言い換えればコトの側は、それ自身からそれ自身でないないモノを差別するという仕方でそれ自身にとどまりながら、同時にそれ自身とそれ自身でないものとの差異にもなっている、といういわば二重の身分を引き受けているいること、ここにこの差異の特異な構造の謎が潜んでいる。(心の病理を考える/木村敏)

身体はその活動の本拠を閉鎖系としての自分自身のシステムの内部にもっているのではなく、環境とのあいだあるいはその境界面にもっていることになる。(同/木村敏)

私は、抽象絵画に於いては、線(境界)によって仕切られた互いの色面は、どちらかを図とし地として認識しても、それぞれ何らかの造形的な意味を失わないものが抽象度が高い、あるいは平面という性質に即した芸術だと、考えているところがあります。
つまり、相互にゲシュタルト転換が可能であるということ。図と地は、どちらが主でどちらが従でということではなしに、等価であること。(かつての私の言葉)

これらの関係について考えています。

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