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発病しないための試み。
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コメントの返事と合わせての今日の一言

暗黙知・共通感覚は、
相手の立場にたって考えるというのまで含まれます。
共通感覚でモノを捉え考えるところを他の言葉で言い表すのに、
述語理論というのがあります。
例えば芸術とスポーツは違うものと一般的には考えますが、
述語的側面に注目すると、「勢いのある絵だ」とか「スピード感を感じる色彩」だとか
あるいは「美しいピッチングホームだ」とか「芸術的ボールさばき」だとか
という言い方が可能になる。
つまり、ふつう相容れないものだと思いがちなものの中にも、
共通項を見いだす事を可能にするものだと思う。
暗黙知に潜入という言葉があるが、これ等は相手のシステムに
己のシステムをシンクロさせるようなモノで、共感の極地ともいえる。
否それこそが暗黙知の主要な働きと言えなくもない。
暗黙知は個人レベルのパラダイムシフトに終わるのではなく、
パーソナルコミットメントによる種レベル
さらには宇宙レベル(大きな話しやなぁ(笑))の共振を起こして、
世界そのもののパラダイムシフトを促す働きを持つ。
おぉ、たいそうな話やなぁ。(笑)
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 ポランニーが逆さ眼鏡の話を持ち出すのは、それを用いた人体実験の結果をどう理解し解釈するかを通して、暗黙知の考え方の有効性を示すためであった。そしてポランニーもまた、この問題について誰でも共通の出発点とする1896年のストラットンの実験から話をはじめる。ストラットンはみずから逆さ眼鏡をつけて、逆様になった世界に慣れ適応しうるものかどうか実験した。すると八日ほど経ったところ、逆様になった世界をそれと感じないようになった。ストラットンは、慣れによって視覚像の逆転が訂正されたのだと考え、その説は当時、他の人々によっても確認された。こうして逆さ眼鏡の実験結果は、その後半世紀にわたって、慣れによって視覚像そのものが矯正され逆転されたものと理解されてきた。ところが、今世紀半ばになって、スナイダー/プロンコ(-952)、コッテンホフ(1956)たちの観察によって、視覚像そのものの逆転は八日ほど経っても起きないことが明らかにされた。コッテンホフによれば、慣れによる逆転が実際には起こらないにもかかわらず、被験者が不自由を感じなくなったのは、彼が〈ものの新しい見方〉を獲得したからであり、それが逆になった視覚、筋肉感覚、平衡感覚、聴覚などを調整するのである。もっとも、視覚像それ自身に注意が向けられると、新しい見方による矯正は働かなくなる。そのことはスナイダー/プロンコが指摘しているとおりである。たとえば、逆さ眼鏡をつけても不自由に感じなくなった人が高い建物からそとの景色を見ていた。その人に誰かが突然声をかけ、《あなたにはものがどう見えるか》とたずねると、被験者は答えた。《そういうことをたずねないで欲しかった。そうたずねられなければ景色はふつうに見えたのに、今は逆様に見えるのだから》。コッテンホフとスナイダー/プロンコが明らかにした右のような事実と解釈を推しすすめ、ポランニーは暗黙知のダイナミックスの見地から、次のように説明する。逆転像をそうでなく見させるものはなにか。それは、眼前の光景をコントロールするような仕方で視覚を再編成しようとする想像力の努力である。《まだ副次的な諸細目にもとづかずに諸経験をただ漠然と予知する探究的想像力が、これらの副次的なものを喚起するのであり、こうして〔本来の〕想像力が達成しようとした経験を遂行するのである》。すなわち、ここでポランニーが言わんとしたのは、逆転像をそうでないものに見せる想像力が副次的意識にのっとっているということである。
 この同じ逆さ眼鏡をめぐる問題について『共通感覚論』のなかで述べたのは、次のようなことであった。私の場合もまたストラットンの同じ実験が出発点となり、それに真向から反論したハリスの所説(1966)が、検討される。ハリスによれば逆転像への適応に際して、変化む修正されるのは視覚でなくて身体体の位置感覚である。つまり、触覚が視覚を教育するのではなく、視覚が触覚をつくるのだ、というのであった。こうしたハリスの所説は、実験の上でこれまで見出されてきた多くの事実を、これまでよりもよく説明するものとして、発表以来、知覚心理学界に広く受けいれられた。しかし、私はその主張がいかにもつよい視覚信仰の所産であるように思われてならず、みずから逆さ眼鏡を九日間着用した知覚心理学者牧野達郎氏の実験結果と所説にのっとって、ハリスの主張を退け、被験者の逆転像への適応を、次のような二つの段階から成るものとして捉えた。
 一、自己-外界の正常な知覚体制は逆さ眼鏡の着用によって破壊され、そのために視空間が動揺し、視空間のリアリティが失われる。そうした視空間のリアリティと安定の回復が求められるとき、基準として働くのは身体の位置感覚である。これは、諸感覚の主体的・主語的統合たる視覚的統合が解体して、基体的・述語的統合たる体性感覚的統合が基準になったことである。
 二、視空間がこのようにして安定とリアリティをとりもどすと、こんどは視空間の枠組が定位の基準となって身体の位置感覚を規定し、変えるように働く。これは、右の体性感覚的統合の基礎の上の、主体的・主語的統合たる視覚的統合がともかく再組織されて、こんどはそれが基準となり、逆に体性感覚的統合に規制力をもって働きかけてきたということを意味している。要約するとこのようになることを述べた上で、私はさらに、《《牧野氏はまた、逆転への適応による視空間の正立は持続的ではなくて、断続的で不安定であるといっているが、このことからも体性感覚的統合の基体的な性質が裏づけられるのではなかろうか》と書いた。この正立の視覚が不安定であることについては、牧野氏は、逆さ眼鏡をかけて視野を固定しているとき視野は逆転しているが、視線を動かして〈上〉を見ればたしかに上が見え、〈下〉を見れば下が見えること、つまり、頭や身体の動きが逆さ眼鏡を無効にしてしまう、という興味深い事実を伝えている。私にとってはそのことも体性感覚的統合の一次性を根拠づけてくれるように思ったのであった。またそこで私は、逆転像への適応を体性感覚的統合がもたらすとき、大きく働くのはメルロ=ポンティのいう〈動因としての身体〉による一定の〈空間基準の設定〉であるとした。このようなわけで、逆さ眼鏡による〈視覚像の逆転〉問題についての考察では、ポランニーの所説と私の所説は、実に深く交錯している。私の側からポランニーの所説を見ると、彼の暗黙知と副次的意識の考え方は、その問題を解明するのによく適している。眼を動かしたり頭を動かしたりして、〈から……へ〉注意力を向けるとき、想像力や直観を含んで働くのが副次的意識であるからだ。そしてここまでくると私は、ポランニーのいう副次的意識とは体性感覚的統合の説明原理であるようにさえ思われてくるほどである。また彼は、逆転像への適応に際してなされるものの新しい見方の獲得を、ほかの論文(The Creative Imagination,in Chemical and Engineering, 44, April 1966)では、ものの持つ意味の変化、カオスからの意味の創出として捉えている。そういう関連を持ったものの新しい見方の獲得というのも興味深い考え方である。
 だが、そのものの新しい見方が《逆になった視覚、筋肉感覚、平衡感覚、聴覚などを調整する》というポランニーの説明は、これだけではいかにも不十分であり、分かりにくい。この点については、牧野氏の実験と所説にのっとって、体性感覚的統合の上に再組織された視覚的統合が、こんどは逆に体性感覚的統合の規制力をもって働きかけてくると考えた私の考え方のほうがずっとはっきりすると思う。また、そのものの新しい見方はポランニーでは単に想像力の所産としてしか示されていない。これなども、私がメルロ=ポンティから援用した動因としての身体による一定の空間規準の設定という考え方によって補われるべきだし、ものの新しい見方の持続する機制が考えられるべきだろう。
〈暗黙知〉と〈共通感覚〉の交錯については、ほかにまだ言うべきこともあるが、一まず、以上の考察にとどめておきたい。したがって、ポランニーのいう〈人格的知〉(〈個人的知識〉)と私のいう〈パトスの知〉との交錯については、別の機会に考えることにしたい。
(暗黙知)と(共通感覚)

さてこの論文の紹介もう少しで終わることとなる。
思えば、最初「要約して」みたいなことを言いながら、
結局その内容のほとんどを紹介してしまった。(笑)
しかし、あらためて読んでみると、どうかすれば、
この内容でも充分なくらい、その二つの理論の概略、
(と言ってしまうのが失礼なくらい)となっているように思える。
という事もあり、要約する事は避けた。
では、残りの2編を今日と明日で紹介してしまおうと思う。




 まことに〈暗黙知〉の動的な活動において、副次的意識は、そのなかに想像力と直観を含んでいる。あるいは少なくとも、暗黙知のダイナミックスのなかでは、副次的意識は、想像力や直観とともに働く、ということができる。すなわち、暗黙知において、副次的意識によって捉えられた要因の細目が、焦点的.意識によって統合化された全体となるとき、そこで働くのは想像力と直観であり、これらの働きなしに、〈から……へ〉の移行、近接項から遠隔項への移行は行なわれえない。暗黙知の働きの一つとしての科学上の発見について考えてみても、最初に働くのは想像力である。探究の対象あるいは目標となる問題さえも、想像力の働きなしには現われ出ない。なお、そのような想像力の活動は、問題解決の糸口がつかまれたときに停止され、統合の直観によってとって代わられる。想像力によって要因の諸細目が解き放たれ、直観によってそれらが新しく統合しなおされるのである。暗黙知におけるこの想像力と直観の働きは、自転車の乗り方を学ぶような感覚運動的な行為を体得するときでも、また、言語を習得するときでも、等しく見られる。たとえば、ひとが言明文をうまくつくれるのは、言表行為に先立って一群のことばが想像力によって活性化されているときである。文としてことばが急いで発せられるときに、役に立ちそうな多くのことばが動員され、用意されるのだ。このあとに、直観が働いて、用意され選ばれたことは群が言明文になるのである。
 このようなわけで、ひとはなぜ、言語の複雑な諸規則を見分け、思い起こし、適用できるのかということを明らかにするのも暗黙知のダイナミックスである。言語活動における意味付与と意味読解も、暗黙知の立場から、仕組が明確化され、広い領域に適用されうるようになる。すなわち、自然のなかでの意味の発見をめざす純粋科学は意味読解の営みであるし、或る目的のために事物を器械化する技術的発明は一種の意味付与として捉えることができる。このように〈暗黙知〉は、想像力と直観を含みつつ、諸分野を横断して働く。しかし、さらにそれは、私たち一人ひとりの身体を基体として働くのである。すなわち、われわれは、他事物に注意を向けるときには、いつでも、自分の身体についての副次的意識に依存している、ということができる。しかも、なにか或る事物を暗黙知の基体項(近接項)として働かせるためには、われわれはそれを自己の身体の内部に統合しなければならない。いいかえれば、われわれはその事物のなかに棲み込まなければならない。暗黙知の一つの働きであるこの棲み込み(in-dwelling)は、ディルタイやリップスのかつて説いた感情移入と似ているようでちがう。というのは、感情移入が入間の内部と外部、人間や芸術と自然・事物・理論の区別にまだ囚われているのに対して、棲み込みは明らかにそれらの区別を突破しているからである。しかもさらにポランニーは、自然科学と人文研究との隔たりを、〈われ─それ〉と〈われ─汝〉の隔たりとして捉えなおしている。そして、その隔たりを架橋する根拠づけを、われ自身の身体についての〈主観的われ─客観的われ〉(〈I─Me〉)の感知(意識)、に求めている。つまり、〈主観的われ─客観的われ〉を含むわれが、自己の身体について感知し、そこに棲み込むことが、すべての棲み込みの出発点になるのである(Knouwing and Being,p.160)従来、哲学的な心身関係論のなかでは、心が身体のなかに棲むという考え方は誤った見解として退けられてきた。が、ポランニーの場合、棲み込みを比喩としてではなく存在の在り様として捉えることによって、かえって、心と身体の関係についても新しい意と見方を与えたのである。そしてこのような棲み込みの考え方は、私が〈共通感覚〉論において、なぜ共通感覚によって他人の立場に立ってものを感じたり考えたりできるか、さらには、諸感覚の統合としての共通感覚が社会の諸成員の間のコモン・センスになりうるか、という問題について考えあぐんだことに対して、大きな示唆を与えてくれる。
 それらの問いに、これまでも私はなにも答えなかったのではなく、共通感覚の働きとしての想像力によって、一応の答えにはしていた。しかし、副次的意識=体性感覚的統合という結びつきにおいて、それらはいずれも棲み込みの一形態として見なすほうが、たしかにずっと説得的である。もっともポランニーは、棲み込みを想像力とほとんど関係づけては考えていない。その理由はさだかではないけれども、おそらく彼の場合、想像力が広い意味での発見(未知なものや新しいものの認知、習得、創作、読解など)の観点からだけ考えられたからであろう。さて、ここに、ポランニーの〈暗黙知〉の理論と、私の〈共通感覚〉論がおのずと出会った個別問題がある。それはほかならぬ〈逆転視野の知覚〉の問題であり、ある意味でここにはこれまで見てきた暗黙知と共通感覚の間の問題が結集されているともいえるのである。そこで最後に、その問題について考えておこう。そして、この問題はポランニーのいろいろな著書や論文のなかで扱われているが、詳しく扱われているのは、『知と存在』(Knouing and Being,pp.198─200)においてである。他方また、私自も『共通感覚論一知の組みかえのために』のなかで(111─135ページで)扱っている。ポランニーの叙述に即してやや立ち入ってみてみることにする。
 こうして、いちばん重要で難しい問題に出会うのは第三の点である。ここにあらためてポランニーのいう副次的意識と、私のいう述語的統合(体性感覚的統合の発展としての)の対比と関連づけがいっそう必然性を帯びてくるわけだ。実をいうと、先にポランニーのいう副次的意識あるいはfrom意識の分かりにくい在り様をいわば焙り出そうとしたときにも、若干は私のなかの述語的統合の考え方の嚮導によったのだが、いまようやく、述語的統合それ自体と副次的意識とを関連づけて考えることができるようになった。私のいう述語的統合とは、主語的統合が自己同一的で求心的な統合であるのに対して、差異化やずれを含み、拡散的で遠心的な動向を媒介にした統合のことである。というのも、もともと述語は、主語が概念的な自己同一性と結びつきやすいのに対して、言語的な自己差異化や自己拡散化を体現しているからである。こうした点については、かつてM・フーコーが「外部の思考」(『クリティック』誌、一九六六・六)のなかで〈私は考える〉との対比で〈私は語る〉を問題にして次のように書いて、そこに見られる特徴を明らかにしたことがある。すなわち、〈私は語る〉においては、語る〈私〉はおのずと断片化され、分散され、ばらばらになってしまう。〈私は考える〉は私の存在の疑いえない確実性に導いたが、〈私は語る〉のほうは、われわれを拡散させ外部へと導くものである、と。
 だが、述語と述語的統合のもつそのような性格をいっそうはっきり示すのは、主語的同一性にもとづく主語論理に対する、述語的同一性にもとづく述語論理であろう。すなわち、主語論理が、大前提=リンゴは果物である。小前提=すべての果物には食べ頃がある。結論=リンゴには食べ頃がある、というかたちの三段論法をとって、必然的に──つまり一義的な──結論を導き出すのに対して、述語論理のほうは、次のようなものとなる。大前提=りんごはまるい。小前提=乳房はまるい。結論=りんごは乳房である。これは、今わざと推論(三段論法)と同じかたちで示したが、もちろんりんごと乳房との結合は形式論理にもとづく論理的な同一性ではなくて、ただまるいという形態の類似によって結びつけられたものである。したがって、リンゴは乳房でなくても他のまるいもの、たとえばまるい風船とでも、地球とでも結びつきうる。つまりりんごは、まるいものとだったら、なんとでも結びつきうる。しかも、それらを結びつけるのは、欲求であり、願望であって、いわゆる論理でもなければ概念の同一性でもない。この《りんごは乳房である》と考えるような思考方法は、容易に気がつくように、精神病者(とくに分裂病者)に見られるだけでなく、ふつうの人々の象徴形成・象徴使用のうちにも、また芸術家たちの創造活動のうちにも見出される。そして、たとえば芸術家が、これと似たやり方で、ふつう無関係だとばかり思われている物同士を結びつけて、ものの見方や世界の見方を変えさせるのは、彼が類似したものにとくに鋭敏な感受性をもっているためだけではない。それとともに、主語的同一性の論理(アリストテレス的論理)によって統一されている現実の全体をばらばらに解体させる力をもっているためである。私のいう述語的統合も、このような述語論理につながる性格、つまり差異化や拡散を含んだ性格をもっている。
 述語的統合がこのようなものとして捉えられるとき、それは、ポランニーのいう副次的意識といろいろな点でいっそう重なり合うことになり、副次的意識に新しい光をあてうるはずである。そこで、副次的意識を述語的統合と関連づけて捉えておくと、次のようになる。
 一、副次的意識や近接項(基体項)は、述語的統合と同じく、本質的に暗黙知のなかにあって主語的ではなくて拡散的であり、したがって、それ自体は意味を帯びていないが意味発生の基盤をなしている。また、副次的意識はそれ自体は明記されえなくとも、明記されるものを支えているのである。
 二、さきに見たように、副次的意識は一見それとちがい無意識や意識の縁暈とはっきり区別されて、その実体性が否定され、〈から……へ〉へとひとを導く機能性あるいはむしろ関係性が強調された。そしてその関係性は論理的であるとともに暗黙的であるとされた。この暗黙的でかつ論理的(ロゴス的)であるというのはまさに、自然言語の、とくにその述語面の特徴だから、副次的意識(つまりfrom意識)と焦点的意識(to意識)との関係は、述語的な言語論理の関係として捉えるのがいちばんいいだろう。
 三、暗黙知において、副次的意識は、要因の細目を対象化するのでなく多面的に捉えることによって諸細目の間の固定化された関係を解体して、相互の間の新しい結びつきへの道をひらく働きをし、この点で、暗黙知のダイナミックスあるいは暗黙的統合は、想像力と直観をも含むことになる。こうして述語論理にのっとった述語的統合と想像力や直観と結びつく副次的意識とは、さらに近い関係にあることが分かる。
 四、ポランニーは副次的意識を実体化して無意識や意識の縁暈と同一視することを退け、それを機能的な関係概念としている。ところが彼は、外界についてのすべての知の究極の基盤はわれわれの身体にあるとし、しかも、自己の身体について感知するにふさわしいやり方は、身体を副次的意識によって捉えることだと言っている(暗黙知の次元)。これは私のいう体性感覚的統合とほとんど同じ働きであり、したがって副次的意識は、私のいう、体性感覚的統合とそれを関係概念化した述語的統合の両方の性格を合わせもっているのである。
 この明記しがたいことにもかかわるのだが、副次的意識は私たちに容易に、フロイト的な無意識やウィリアム・ジェームズのいう意識の縁暈を想い起こさせる。もう一方の焦点的意識がはっきり意識的なものであるから、副次的意識は無意識や意識の縁暈と同一視されやすい。しかし、彼は断乎として繰りかえし、その副次的意識がそれらのものとちがうと言っている。たとえば、こうである。

《焦点的意識は、もちろん、いつでも十全に意識的である。しかし副次的意識あるいはfrom意識は、識閾下のものから十全に意識的なものまで、どのレヴェルの意識においても存在しうる。ある意識(感知)の在り様を副次的なものにするのは、その機能的な性格である。だからわれわれは、副次的意識の存在をわれわれの身体の内部の諸機能に対してもつまり、直接の経験によってはわれわれに到達できないレヴェルでの諸機能に対しても─一主張することができる》(Meaning,p.39)。

 すなわちポランニーは、暗黙知における第一項と第二項の関係の機能的側面を強調することによって、副次的意識を無意識や意識の縁暈から区別するとともに、基体としての身体の内部の諸機能まで副次的意識にかかわるとしている。この三つは一見結びつきにくいように見えるが、そんなことはない。なぜなら、さきに述べたように、機能的側面のなかには、〈から……へ〉関係とともに〈近接項一遠隔項〉関係を含み、しかも近接項はそのまま基体項であるからである。そこにさらに、暗黙知の第一項と第二項の関係の意味論的側面を考慮に入れれば、もっとはっきりする。つまり、副次的意識はその場合、意味するものと意味されるものとの前者に働くので、記号のもつさまざまなレヴェルにかかわることになるのである。



 さて、このようにポランニーの〈暗黙知〉の基本的な構造とダイナミックスを見、また、そのなかを貫く副次的意識と焦点的意識の在り様を見てきて、次に私は、それらを〈共通感覚〉の考え方とかかわらせて考えることにしたい。この場合、〈共通感覚〉の考え方のなかでとくに問題になるのは、一対の対立概念である体性感覚的統合と視覚的統合、あるいは述語的統合と主語的統合である。体性感覚とは、広義の触覚と運動感覚とを含んだ、われわれ人間の漠然とはしているがベーシックな感覚のことであり、体性感覚的統合とは、諸々の感覚(簡単にいえば五感)の基体的統合を意味している。それに対して、視覚的統合というのは、概念的な把握力に通じる視覚のつよいリードによる諸感覚の統合のことである。私の場合、これらの統合を考えるに至ったのは、アリストテレス的な意味での共通感覚(コイネー・アイステーシス)つまり五感を貫き統合する感覚(*)という着眼を受け継ぎ、自分なりに発展・展開させていって、共通感覚による諸感覚の統合にも、どの主要感覚がリードするかによっていろいろな型のものがあることに気がついたためである。

(*)アリストテレスは共通感覚について、視覚に眼が、聴覚に耳があるような、そういう特定の器官はないとは言っているが、しばしば誤って考えられるように、共通感覚がないなどとは言っていない。だから、特定の器官としての共通感覚というものは存在しないということにはなるが、その点でも、感官というものを主体化せずに作用を担った関係として捉えるならば、共通感覚というのも積極的な意味を帯びてくるのである。

 そして、右のような体性感覚的統合と視覚的統合という対比を諸感覚の統合について考え、提出した上で、私はそれらをそれぞれ、基本的統合と主体的統合、さらには述語的統合と主語的統合というかたちに言い換えた(『共通感覚論』第?章第五節「諸感覚の〈体性感覚〉的統合」を参照)。それは言い換えではあったけれども、私の場合も、ポランニーが副次的意識と焦点的意識について言っているように、体性感覚的統合と視覚的統合という相関概念を、実体的なものから機能的なものに解き放とうとしたからである。つまり、存在の或る在り様を示す、いろいろなレヴェルの実在に適用できる概念にしたいと考えたからである。
 もちろん、私が考えた体性感覚的統合あるいは述語的統合が、ポランニーのいう副次的意識あるいは近接項(基体項)と似ているのは、それに先立って、私のいう共通感覚がポランニーのいう暗黙知とよく似ているからである。さきに私は、後期ヴィトゲンシュタインの論点とポランニーの論点とが重なるところについてギルが行なった指摘のなかから、とくに暗黙知に関係する三点をとり出した。それらを新しく番号を打ちなおして並べてみると、次のようになる。一、われわれは自分の語りうるものより多くのことを、いつでも知りうるし、事実知っているはずである。二、この知は、われわれの個人的な裏づけをもっている。三、そのなかでわれわれが推論する認識論的枠組の実在と性格は、焦点化もされなければ、明示的に分節化もされず、われわれの行動のうちに副次的にあらわれる。
 これらの三点について、共通感覚の考え方から対応しておくと、次のようになるだろう。一、人間の知は、論弁的に語られうるものだけに限定されてはならず、根抵にあってそれを支えるもの(隠瞼的なもの、サブ言語的なもの、など)までも含めて考えるべきである。二、この知は、生きられる身体によってこそ基礎づけられ裏づけられている。三、認識論的枠組や存在の地平は、物ではなくて場所(トポス)であり、主語的なものではなくて述語的なものであり、したがって述語的にしか知りえないだろう。このように対応させてみるとよく分かるのだが、第一の点は、暗黙知と同様に共通感覚も、論弁的に語られうるものだけでなく、サブ言語や非言語的言語の領域までかかわっていることを示し、第二の点は、暗黙知を別の角度から捉えた人格的知(個人的知識)と、共通感覚の発展としてのパトスの知とがいずれも生きられる身体と経験の上に根ざしていることを示している。そして第三の点は、暗黙知も共通感覚もその考え方を突きつめていくと、基体的なものの在り様をどう捉えるかという、伝統的な哲学の言語によってはたいへん捉えにくい問題に出会うことを示している。
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