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発病しないための試み。
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遅ればせの、河合隼雄氏追悼。

創発の絵画は終わったわけではないが、そもそも書こうと思っていた事でもあり、必要と思われるので河合隼雄氏について書こうと思います。

7月19日に氏が他界して、早くも2ヶ月ちょっとが経ってしまった。
思えば、氏には師とでも呼びたくなる程、書を通じてではあるが、大変な教えを賜ったという思いがある。
それを、少し書いてみたいと思う。   
河合隼雄氏の書に出合ったのは、何度もブログで記載したように、知人の下宿での事である。
私は当時既に、哲学や宗教そして心理学の事には興味は持っていた。私もご多分にもれず、学校教育によって、優等生とまではいかなくとも、やはりより良い生き方とは何か、みたいな事を考えさせられていた。家庭にも問題が(両親の不仲等)あってそれらが、哲学や宗教への傾倒という形に表れていたのだろう。

しかし、それらの書から学んだものが、どうも全体としてまとまりが着かず、自分の中でギクシャクして感じていたのを覚えている。
美と倫理と科学の矛盾とでもいったらよいだろうか。
例えば、どうより良く生きるべきかを哲学思想に求めているのに、それらが評価する近代美術の巨匠達は不遇な人生を送っていたりする。しかもあまつさえその不遇さがすばらしいなど評する輩さえいるのだ。
また、科学とは我々の世代の子供の頃は、科学的な方法論に対する万能観とでも言うべきものがあったが、どうも美術や、心の問題に対してはどうする事も出来ないように思える。素朴には悲しい事や、苦しい事は嫌なはずなのに、なぜそのような映画や絵画を人は見たがるのか。あるいはなぜにそのようなものが感動をよぶのか。
さらには、そもそも感動とはなんなのか。といった事どもが、私のなかのギクシャク感としてあった。

それらのギクシャク感が、河合隼雄氏の「ユング心理学入門」を読む事で溶解して行ったのを覚えている。
極簡単にはこういうことだ。
そもそも人間とは心に善悪醜美全部そなわった多様な存在で、それが社会という場ではその規範と言うものに抑圧されることで、自分の存在の部分でしか生きられない事を余儀なくされている。それが人の悩み苦しみの本質的なものだと言っても過言ではない。
そこで、心理学はもとより、芸術や果ては哲学や思想までもが、その生きられなかった陰の部分に対して非破壊的なしかたでもって光をあててやるのが、それら文化的活動の知られざる役割で、もう一つの存在意義なのだと私は理解したのだった。
そしてそこで(臨床心理学において)活用されている方法が、現象学的なものであることを、「心の現象学」という形で第一章で述べられている。私はここで、はじめて現象学なるものの存在を知るわけだが、その後の思想形成において現象学的な視点はベースとなっている。

おもしろい事に、このユング心理学とそこにおける現象学的な視点の深化は、当時絵画制作における分析的キュビズムにからその後の抽象絵画への理解との共時的な進行のしかたをしている。
つまり、分析的キュビズムとは、現象学的還元によるゲシュタルト崩壊と私は理解したのでした。

その意味で、河合隼雄氏は私に決定的な影響を与えたと言ってもいい。その時の感謝の気持ちと、ご冥福を祈って、一人杯を傾けるのだった。

ううっ。先生〜。
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真なるものと、そうでないものとは、ごく簡単な言い方をすると、「開かれたもの」と「閉じたもの」という風にも言えるかもしれない。
前回、より上位への志向をもつのが真なるもので、ある層で完結するものが、真でないものと言う趣旨のことをいったが、とするなら、これは完成度が高いものが必ずしも真なるものではないということだとも言える。
完成度が高いというのは、多分に結果が予測されている、到達すべき地点が明確であるということでもある。
とすれば、作品にはそれ以上(以外)のものは内包されない。これは、むしろデザインというべきものであろうと思う。一般的には知られていないが、そもそもデザインとはそういう、計画的にモノをつくるという意味もあり、実際そのようにつくられている。 
一方、アートは極端な言い方をすれば、どのようにつくるかの制約がまずないのだ。それを自分で設定して、さらにつくりながらそれが、変わって行く事だって珍しくはない。つまり、常に作品を超えたような視点、すなわちさらなる上位の包括的全体なるものが、志向されているといっても過言ではない。と言えるのではないか。
包括的全体(意味)は、我々の持つ(認識の)ゲシュタルト的な性質、すなわち暗黙知によって、生成される。
ゲシュタルトとは意味のある(全体的な)まとまり、あるいはグルーピングであり、そこに暗黙知の働きがある。けれども、それは意識化出来ないと言う意味での「暗黙」という事なのだと思う。何ゆえに意識化できないのか。それは、私達の存在自体が、意識のシステムだけに依拠して存在しているからではないからで、暗黙知とは意識外のシステムの力を借りようとする事なのに、意識を働かせてしまっては、その力を引き出す事は出来ないからだ。意識外のシステムとは、その一つは身体的なシステムということが出来る。
昨今の健康志向は、単にそれだけにとどまるのではないのだと思う。人が持つ身体システムへの注目と開放によって、意識外システムとしての暗黙知の回復を、これまた暗黙知的(無意識的)に志向しているのだと思う。

そして、蛇足ながら創発とは暗黙知によって生成されることで、観者の暗黙知にも働きかける性質を内在させた存在(作品)であるということだと思う。

前述の「創発の絵画」とは大仰な事を書いてしまったかもしれないと反省している。
彼女の絵が見合わないと言うのではない、自分にそれを語るだけの力量がないことを感じてしまった。(笑)
随分時間をかけたが、今回は断念して次に進もう。

さて、要するに、(私的には)真なるアートとは、現前にある作品において、より上位の包括的全体を予感させるベクトルを感じさせるものであるか否かということだと考えている。
私にとっては、「視」にはそれを感じるが、「RELAYER」は、あまりそれを感じられないのである。それは、ロジャーデーンがデザイナーだからなのか、あるいはその仕事がジャケットデザインだからなのか。つまり、デザインと言うのは基本的に、何かの為にデザインされるのであって、あらかじめ存在するコンセプトからはみ出たり、それを超えて行くものではない。だから、「RELAYER」にはそういったモノが感じられないのはあたりまえと言う事でもあるのだと思う。
まぁ、そういう意味では、比べる事じたい間違いではあるのだが。
ようするに、ロジャー・ディーンに惹かれていたのは、
造形的な目を持つ前の、素朴な趣味趣向の部分であった
ということなのだ。にも、かかわわらず両者の共通点を感じてしまうということは、彼女の絵に対しては、趣味趣向の部分と造形的な視点と言う部分の二重の意味で、惹かれているということなのだ。(つづく)
眠る時間も欲しいので、ちょっとだけ。(笑)

さて、前回のコメントの返事でも述べたように。
「視」と「RELAYER」は、実は似て非なるものでもあるとも、考えている。
かつての、ブログでも述べたごとく、アートには真なるものと、幻想としてのものがあると私は考える。
基本的にこの発想は、栗本慎一郎の「意味と生命」からきている。

氏によるなら、思想とは、ある層への注目を通してより上位、すなわち包括的全体へと志向する意味生成行為である。一方そうではなく、ある層において完結(安定)してより上位へと志向しないもの、あるいは上位へと抜け出せないものがあるという。前者を真の思想と呼び、後者を疑似的(幻想的)思想だとしている。
ここにおいて、真の思想とはそのベクトルをさらなる上位へと常に志向し、指し示すものである。

(つづく)
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