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発病しないための試み。
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「見える」と「見えない」はなぜ存在するのか。

見えない次元は誰の目にも見えている。
目の前に見える形で、存在している。
それは、我々の認識の構造に仕掛けがある。
その認識の構造とは、ゲシュタルト的性質ということだ。

ゲシュタルト(直訳では形態)とは、以前、意味のあるまとまりと言った。
我々人間は常に、世界に、物事に対して意味のあるまとまりとして、
すなわち意味付与して、概念化する事で生活して生きている。
我々の暮らしの中にはゲシュタルトが溢れている。
目を覚ますと時計を見る、時計も「時間を計測するもの」
で構成されたゲシュタルトである。
正面に1から12までの数字がならぶ、インテリアではないのだ。
ゲシュタルトは個別に存在するだけでなく、グループ化したり連携したりして、
複合的多層的構造を形成していて、それらのぞれぞれに対しても
ゲシュタルトが形成されていると言っていい。

例えばこのようなもの(^_^;)は、認識のゲシュタルト的性質があってこそ
理解できるものとなる。つまり、これは部分として見るなら
(と^と_と^と;と)の文字なのだが、これをあくまで文字として見るなら、
何が書かれているのか全く理解できないものとなる。
絵なのだ、文字を使って全体として絵として構成されている
ゲシュタルトなんだという設定がなされて、初めて理解可能なものとなる。

大事なのはこの次だ、ゲシュタルトは全体を網羅しているわけではない。
部分部分を拾い上げて意味のあるまとまりに構成している。
あるいは、まとまった形にするには、全体を拾う事はできないとも言える。
だから、使われていない情報があるのだ。
しかも、我々には見えていながら、使われていないのだ。

だから、見えない次元が存在するのだ。

一旦できた、このゲシュタルトの認識構造が邪魔をして、
他にも存在している他のゲシュタルト、すなわち意味ある形態を
見えなくさせているからだ。

しかもゲシュタルトとは、一旦形成されてしまうと、
容易に崩しがたい性質を持っているからだ。
つまり一旦(^_^;)を絵文字と認識してしまったら
(と^と_と^と;と)の文字だという認識には
余程の必要性がない限り変更不可能である。
さらに、ゲシュタルトは個別で存在するのではなく、
他との連携構造を持っているので、その存在は強固なのである。

あるいは、いまの認識構造を支配しているゲシュタルト以外の
ゲシュタルト構造がある事を知らないからとも言える。
いや、ゲシュタルトであるという事自体が認識されていない。
つまり、そもそも意味というものが我々の考えている程、
全体的で確定的なものではないということなのだ。

そして、実はスピリチュアルという一般には見えないと
される部類のものも例外ではなく、
この我々の認識がもつゲシュタルト的性質を理解すれば、
何ゆえに「見える」と「見えない」があるのかが解るのではないだろうか。

私の知る限りアートに於ける「見える」と「見えない」は
あきらかにそういう性質のものである。

世界のゲシュタルト的構造を理解しましょう。
我々の認識のゲシュタルト的性質を知りましょう。
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昨日、子供と連れ立って駅前の紀伊国屋書店に行った。
いつものように哲学のコーナーに行ってみると、
「池田晶子氏死去」の告知が、その平積みのところにあった。
ふと、虚しい悲しい気持ちがこみ上げてくるのだった。
思えば、10数年程前、書店にて「事象そのものへ」というタイトルを見つけ、
「おお、まんま(現象学の祖フッサールの言葉)じゃないか。
しかも、女性で自分と同世代じゃないか。」新しい才能が開花してくるのが、
とてもうれしく思われ、すぐ手にし数ページ目を通してその内容の水準の高さを
確認すると即購入したのを、憶えている。
難解さはなく、大きな感動もなかったが、その文体はここち良かった。
読めていないだけかもしれないと、
いつかまた読む事になるだろうなどとも思いつつ月日を経たのだが、
先立たれてしまわれた。
とてもとても、残念でならない。
弔いの気持ちを込めて、一人杯をかたむけた…。昨日、子供と連れ立って駅前の紀伊国屋書店に行った。
いつものように哲学のコーナーに行ってみると、
「池田晶子氏死去」の告知が、その平積みのところにあった。
ふと、虚しい悲しい気持ちがこみ上げてくるのだった。
思えば、10数年程前、書店にて「事象そのものへ」というタイトルを見つけ、
「おお、まんま(現象学の祖フッサールの言葉)じゃないか。
しかも、女性で自分と同世代じゃないか。」新しい才能が開花してくるのが、
とてもうれしく思われ、すぐ手にし数ページ目を通してその内容の水準の高さを
確認すると即購入したのを、憶えている。
難解さはなく、大きな感動もなかったが、その文体はここち良かった。
読めていないだけかもしれないと、
いつかまた読む事になるだろうなどとも思いつつ月日を経たのだが、
先立たれてしまわれた。
とてもとても、残念でならない。
弔いの気持ちを込めて、一人杯をかたむけた…。
フランク・ステラに関して、別のブログにコメント頂いたので、気を良くしてもう少し書いてみる。
あのブラックには、向こう側があるように見えたと言ったが、そこにはなにかが存在するように見えた。それは、あのばあい違う絵だったのだが、何がみえたかという事よりも、その見え方が興味深かった。まるで、自分の心を写す鏡のように思えたからだ。もちろんブラックという色そのものが、我々に対して一種の感覚遮断状態を引き起こす事で幻影なりを見せる可能性は充分考慮に入れながらも、しかしあの場合はあの白のストライプがなぜかそこでも威力を発揮しているように思える。ストライプがある事でそれが前に出て来て地のブラックが奥に引き込む、つまりブラックがストライプの後ろに回っているかのように感じてしまうことで、さらにそれが闇へと空間へと見えてしまうからだ。面白い。そういった事どもが、あの作品に厳かさや謎めいた奥行きを感じさせるのだろう。
前回、人間の視覚構造を利用したものだと思う、と書いたが、多分フランク・ステラ自身はそれをそんな風に計算ずくで制作したのではないように思う。もしそうであったら、計算ずくでもっと多様な表現があっても良いと思われるからだ。ブラックシリーズや、ストライプに固執し過ぎるように思える。多分偶然に発見したのではないだろうか。
あの展覧会には、他にも(私的)見どころはたくさんあった。
まず、ピカソの(分析的)キュビズムの作品があった。私はキュビズムから抽象画そして現代美術に入ったので(これは正道だと私は思っている)、その善し悪しはすこぶる良くわかる。さすが大師匠、脱帽という気分だった。
デュシャンは、そのキュビズムに次ぐ革新性には憧れを持っていたので、まさにそのような気持ちで魅入ってしまった。クレーは残念ながら作品が小さいのもあり、人だかりであまり良く視る事が出来なかったが、今イチだったように思う。カンデンスキーのは、あまり抽象性の高くないものだった。つづくタトリン、モホリ-ナギは、一時ロシア構成主義にも惹かれている時期があったので、視れてうれしいの一語だ。ボッチョーニ、モランディもよかった。
次のジョセフ・コーネルは最近知り合った画家のO女史(私は彼女のファンだ)が好きだというので、興味深く拝見させてもらった。箱庭療法にも通ずるものだろうか、その繊細さに優しいもの感じさせる。とても癒されるような、懐かしいような気分に浸らされる。そういえば、子供のころミニチュアで遊んだ事にも通ずるものを感じる。
そして、次はジャコメッティだ。このブログでもふれたように、ジャコメッティには空間変容が感じられるはずだ。よくある、胸像や全身像ではなく変容はさほどでもなかったが、相変わらずだなという感じだった。(笑)
フォンタナの空間概念は例のキャンバスを切り裂いた物でないほうの、画面中央がめくれるように穴があいている方をみて、なるほどと思ってしまった。
マーク・ロスコ、自然にいい感じで、好きですな。日本人の感性にはなじみやすのでは。
あとは、前回書いた通り。
ゲルハルト・リヒターも初めて実物をみた。う〜ん。感動するほどのものはみつけられなかった。


先日、国立国際美術館(大阪)に「夢の美術館/大阪コレクションズ」を観に行って来た。在阪美術館所蔵の、現代美術作品を集めた展覧会だった。メジャーな作家30人くらいの72点の作品が観ることができた。もともとあんまり知らない自分でも知っているぐらいのメジャー級が殆どだったので、得した気分になった。
個人的には、今回の収穫はなんと言っても、フランク・ステラと言っても良いだろう。ミニマルアートが何であるかが解ったように思う。たぶん写真でみたのでは、あまり良くは解らなかったであろう。それは、私の今回の目的とも言える、アンフオルメル系の作品群のあとにやって来た。
残念ながら、ミッシェル・タピエもジョルジュ・マチウもなかった。マーク・ロスコは観たいものの一つだったので、何か見えるかもしれないと思っていたのもあったがそういうのは見受けられなかった。
それは、モーリス・ルイスあたりからやってきた。画面の下左右の二角に外側から中央の下方に向けて、5・6本だったか、線状に筆のような筆跡で原色系の映えたカラーが入れられてある。すごく単純なものなのに、奥行きなり動きを感じる、しかも色が入れられている箇所以外は、地の素材のままなのだ。その素材のところだけを視ると、単に素材なのだが、色の入った箇所と合わせてみると、その素材がそうとは感じられないのだ。色との対比のせいなのだろうか、単なる素材が表現の一部と感じられてくるから不思議だ。そして、そこに描かれた原色系統の色の筋がまた存在感があるのだ。
その不思議さが、まだ醒めあらぬうちに、フランク・ステラはやって来た。2メートル位の正方形の画面にブラックをバックに細い白のストライプが描かれている。(上部図)作品の前に視界に作品以外のものが入らないぐらいの地点に立つと、奥行きがかんじられるのだ。そして、奥へと引き込まれつつ、下方へすっと引き込まれるような感覚がする。そして、単に感覚だけでないまさに奥行きを感じるのだ。おもしろい。不思議だ。崇高な感じさえする。その黒が闇にも感じられ、すうっと向こう側があるような奥行きを感じるのだ。
実は、帰ってから、コンピューター上でイラストレーターを使って再現してみた(上の写真)。するとどうだ、ほぼ同じものが感じられるではないか。なるほど、ミニマルとはこういう事なのか。単純な色と形なのに、いろんなものを感じる。オプティカル・アートほど、人の錯視を利用したものではないにしても、人の視覚構造の特性を利用したものであるように思う。しかし、オプティカル・アートにはその効果が大きいところからくるせいか、錯視であることを意識させられてしまう感があるが、このストライプはそれとは違い、錯視が派手でないせいか厳かな感じさえする。表現はミニマルであっても、こんなにも、謎めいた奥行きを作品にあたえる事ができるのか、という発見をした日だった。
未知なる音楽を前にして、新しい音楽の聞き方を探り出していくと言ったような私の音楽の聴き方は当然の帰結として、フリージャズや現代音楽にまで触手を延ばす事となる。

しかし、そこまでいってしまうと、しだいに、もはや音楽とそうでないものとの境界自体が疑問に思えてくるようになる。

実は、私がキュビズムを通じて抽象絵画へと歩み出た、その行きついたさきもアンフォルメル(不定形絵画)という、絵画とそうでないものとの境界が曖昧になる次元だった。

ここまで来ると、自分の作り出すものよりも、そこいらにある、ゴミやスクラップのなかにある錆びくれ腐食したシミ・汚れや、木片や板きれなどの、ものの方が余程深みがあって、複雑な色や形が醸し出されていて、到底自分の及ぶところのものではないという、感覚に捕らわれるのであった。そうなると、もはやそういった表現自体の意味が分らなくなって来るのだった。もちろん、厳密に言えば、多くはそういった自然的構成物がそのままで、アートになるわけではない。例えば本場中国の柳麺が日本人の口に必ずしも合わないというところから、日本人の口に合うラーメンが生まれたように、自然界の造形もそのままでは人間の感性にあわないという理由で、アートという料理・調理が施されるのを必要とすると、考えることも可能だ。けれども、やはり一方で、花鳥風月などとったような手つかずの自然みたいなものを、愛でる感性が人間に、特に日本人にはあるではないか。そのような感性があるなら、芸術作品という料理法がどこまで必要なんだろうか、と思えてくるのだった。
つまり、結局自分は音楽を聴く事の果てに、アートを鑑賞し制作するという向こう側に、この住み慣れたこの世界や目の前に広がる大自然に帰り立つのではないかという事に思い至る。(つづく)
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