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発病しないための試み。
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『共通感覚論』について少し書いてみる。
共通感覚とは、もうほんとに平たく言って“常識”というものを、感じ取る感覚といっていいだろう。しかし、ここでいう“常識”は「社会規範」や「一般教養」といった部類の、知識として身につけれるような、あるいは私たち自身が依拠しなければならないモノとは少しちがう。このような一般的な常識に対する我々のいわば“常識感覚”とでも呼べそうな、既存の“常識”に従属的にはたらく感覚とはちがい、むしろそれらの“常識”を必要に応じて自在に使い分けたり、さらには“常識”といったものの成立過程においてさえはたらく重要な感覚ということなのだと思う。
 つまり“常識”といった社会生活にはなくてはならない規範をよりよく使いこなすには、普段我々が行っている従属的な“常識感覚”ではなく、もう一歩も二歩も踏み込んだ“共通感覚”といった、いわばメタ感覚とでもよべそうなものでなくてはならない、と言ってるように思える。また、私たちの“常識”はそういった感覚によって生み出されたものが、惰性化し硬直化したもので、それは時に応じて“共通感覚”によって刷新されなければならず、したがって“常識”と“共通感覚”はいわば弁証法的な関係にあると言う事なのだと思う。

そもそも「共通感覚」という言葉を知ったのは、木村敏(現象学的精神病理学)氏の「異常の構造」(講談社現代新書)を読んだところによる。当時絵を描く事(ことに抽象絵画)を通じて、「確かなもの」とういうものが自分の内側(感覚)にあるのだとうことに気づいていた私は、心理学を専攻する知人(正確にはその本棚)を切っ掛けとして、心とか感覚とか認識と言った事が、物事について考えるのに(現象学的な意味合いにおいて)非常に重要なものではないかという発想をもっていた。
しかし、一方で抽象絵画の開眼とそしてそれへの理解が進行するにつれて、それらがいったい美術や芸術といった文脈以外の一般にとってなんの意味があるのかを考えていた私には、木村敏氏の言う
「共通感覚が個々の感覚に含まれていながら、それらの感覚に固有のものではなく、他の種類の感覚にも移し変える事の出来るような、ある種の感触ないしは気分であるという場合、これはこの共通感覚が個人の有機体の内部に生じる感覚生理的なプロセスではなく、すでに個人内部の領域をはみ出した、自己と世界との関係の仕方にかかわるものだと言う意味をもっている。」
このような「共通感覚」は至極有用な論点であった。

私にとっての「共通感覚」は、抽象絵画への開眼のときに働いていたものと近いものであると言う考えをもっている。そのとき私にはパラダイムシフトとかゲシュタルト転換といった内容のものが発生していたのだと思う。だから『共通感覚論』の副題が「知の組みかえのために」とあるのは、非常にすんなり入ってくる。哲学書にこんな事を求めるのは間違いなのかもしれないけれども、『共通感覚論』を読んでいても、ゲシュタルト転換やパラダイムシフトに通じるような感覚が生じないのだ。全部が理解出来ているとは言わないけれど、書かれている内容はどれも説得的で、優れたものであると思う。けれども今ひとつ、私においてその精神にパラダイムシフトを生じせしめ、共通感覚を呼び覚まさせてはくれていなかったように思う。それが、私をして今ひとつ『共通感覚論』にノッて行けなかったところなのではなかったかと、今さら思い起こされるのだった。しかし、今またこう書きながらもパラパラとめくっていくと、自分が読めていなかったと思われるところも感じられる。また、最後の方に残された問題として、リズムのことや場所のことについて触れてあり、その事は気になってずっと記憶に残っていた。それが、今少しずつ読んでいる「かたちのオデッセイ」において引き継がれているようで、非常に興味深い。「かたちのオデッセイ」では、私が発想としては持っていた事柄との類縁性も感じられるように思っている。例えばそれは、私のいう「ゲシュタルト」とそこで語られている「モルフェ」は近いものであるように思う。出来れば、近いうちにそのようなことも書ければ良いかなと思うのだった。
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”101匹めの猿”現象?同時シンクロ? 2007/05/13 03:49
知らないことばかりでワクワクます。これからも読みたいので、この”場”に感謝します。続きを楽しみにしています。一ファンより
クロス EDIT
無題 2007/05/13 09:41
コメントありがとうございます。
おっしゃる事は「生命潮流/ライアル・ワトソン」に関連する事でしょうか。
私もそれにも、関連づけて考えてはじめているところです。
時間はかかるかもしれませんが、少しは何か書けると思います。
参考になれば、お役にたてれば、幸いです。
本人 EDIT
無題 2007/05/13 20:37
2度目に入学した、宮崎の私立高校で使用されていた英語の教科書に載っていた文章です。研究者による、幸島の猿たちの芋洗いの行動観察について書かれていました。ある猿が飼育係の投げた芋を海水で洗うと味がおいしくなる、と言う事に気づき、見よう見まねで他の猿たちも海水で洗って食べるようになったのです。言語を持たない猿がです。そして芋を洗う猿の数が、大凡百匹程に達したとき、別の島の猿の群も、同じような行動を取り始めたと言うのです。なにぶん、英語の教科書で、研究報告ではないため、詳しく述懐されてはいませんでしたが、興味をそそられ、和訳をするときにワクワクした気持ちを思い出します。言語を持たない猿達の行動が、しかも別の島に住む猿たちに伝わるということが不思議でした。が、今の自分を分析してみると、対話の手段は、口から発する言語のみでない、ということを自身の感覚により解る気がするのです。
クロス EDIT
参考に。 2007/05/13 23:41
またまた、ありがとうございます。
へぇ〜、教科書にそんなことが載っていたのですか。
ライアル・ワトソンの「生命潮流」はご存じないですか?
その「101匹目のサル」なんかも、その本で紹介されて、
一般に流布された感もあります。
もはや、26・7年程も前の本なので、お薦めするには微妙ですが(笑)
参考資料はこちらです。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0101.html

また、私の書いているものに興味を持って下さっているなら、
もうひとつのブログの方もお教えしましょう。
http://blogs.yahoo.co.jp/meme_germ_carrier
参考になれば、お役にたてれば、幸いです。
実はこの忍者ブログの方は、移転しょうと思って、
今年に入って作ったものです。
本人 EDIT
無題 2007/06/03 13:40
nett.wo.hajimetanowa.anatano.kakikomiwo.mitekara.desu./seimeichouryu.no.kotowa.hajimete.sirimasita./sugoku.yaku.ni.tatsu.johuhou.desita./doumo.arigatougozaimasu.computa.no.tsukaikata.ga.wakaranai.sosite.virus.ni.kansensiteiru.kanouseiga.arimasu.matawa.nanimonokani.yotte.block.sareteirukamo.siremasen.mata.itsuka.dokokade.oaidekiru,koto.wo.negatte.imasu.soredewa.mata.
クロス EDIT
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