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発病しないための試み。
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先日とは言っても、
もう3カ月ちょっと前の、
知人の個展での数名の作家を、囲んでの雑談…。
リクエストがあったので、
思い出しながら書いてみます。

そこでの内容の前半は、
某美大(京造ではない)教授批判だった。
その場では(酒のいきおいも有ってり)
かなり共感できるものであったが、
僕がその人を知らないということもあり、
口外は避けようと思います。

後半は、居合わせた人が日本画出身ということもあってか、
日本絵画の、延いては日本の文化の優位性、
といったような話に花が咲いた。

日本の絵画の表現力はすばらしい!!
波や炎のようなカタチが定かでないものをも、
その躍動感であったり、勢いであったりが、
あのようなカタチで、
ものの見事に表現されている。

だいたい(近代)絵画では、
遠近法等を駆使して、平面に対して疑似三次元空間を
再現する事で表現するのだが、
それを客観的あるいは普遍的などと言っているが、
むしろそちらの(近代絵画)の方が人類の歴史から見れば、
特異なことであって、古代からずっと現代にまでおよぶ、
あらゆる人種、民族、部族において、それぞれのしかたで、
平面に即した表現が行われている。
平面表現の方が普遍的なのだ!!
スパーフラット、バンザイ!!

だいたい、日本人は自国の文化の優位性にもっと気づくべきだ!!
いつまでも欧米に、海外に目を奪われてばかりいる事から変わるべきだ!!
自分達の足下を学び直し、日本の文化をもっと輸出すべきなのだ!!

などといいつつ(クダをマキつつ)、
次の二次会へとなだれ込んで行ったのでした。
なんだか、学生の頃を思い出した夜なのでした。

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先日20数年ぶりに兵庫県立美術館でジャコメッティを見た。
見に行ったというわけではないが、(高機能広汎性発達障碍をもつ)我が子に、
少しでもいろいろ経験させてやりたいとの思いで、今回は美術館にいってみたのだった。

今回分った事がひとつ。
以前、ブログに書いた空間変容感覚はまだあった。感じられた。
さすがに、初めて見た時のような、強烈なものは感じられない。
けれども、今回はちょっと違った。

今回、展示している場所には正面から作品に出会うかたちになっている。
私は、展示室に入っていくとすぐにそれがジャコメッティである事が分った。
けれど、以前感じたものが感じられない。
なぜだっ、と…。不思議さと同時に、残念さがこみ上げてきそうになりながらも、
作品の周りをぐるっとめぐりながら、歩いていると…。
あった。以前、感じたものが…。以前ほど強くはないが、確かにある。
どうやら角度とか、距離とかが関係しているようだ。
しかし、他の作品もあるので、思うようにその位置が計れない。
正面からよりも、斜め前方からの方が、それは感じられた。
それも、動いている方があの空間変容感覚は感じられるように思う。
そう思うと、その斜め前方から正面へ移動しつつ見た方が、
実は正面のあの顔の細さの理由が分るように思えた。
とするとさらに、晩年の作品があのように
細くなっていくのが分るような気がするのだった。

学生時代の友人のHPを紹介します。
リンクにある「almacan」です。
学生と言っても、短大を卒業後、
卒業直前に抽象絵画なんか解ってしまって、
いろんな事考えてしまったもんだから、
モラトリアムにいたって専門学校へ行った時の友人です。専門学校時代は一番話が合ったと(私の方では認める)友人だと思っている。彼の作品を造る為に、廃材探しを手伝った仲である。つまり、私は、彼の周囲のなかでは、たぶん最も彼の作品を理解している部類ではないだろうかと(勝手に)思っている。今は、横浜に住んでいて、長らく合っていない。機会がゆるせば、合いたいものだ。(笑)

彼の作品には、独特の記号・象徴解釈のようなものがあって、特に何がどうという事を聞いたことはないのだが、作品を見ていると納得させられるものがある。
どこかにネタ元はあるのかもしれないが、私としては、彼独特のそれらの何を選択しどのように接合するのか、等の仕方にとても面白いものを感じる。

と、今回はこの辺で止めておこう。(笑)
デュシャンとケージに出会ってからほどなく、失画症に陥った。悲しいかな、キュビズムから抽象絵画を経てアンフオルメルにたどり着いた、その傍らで彼らに出会ってしまった。さらに、’50〜’60年代の日本美術界の前衛華やかなりし頃の動向を知ってしまった。描く事の、意味を生成して行くことの驚きと感動を知ったのにもかかわらず、もはや社会的にはなんの意味も持ち得ないと思た。自分が知らなかっただけで、世間では過去のことのようになっていると、理解したからだ。自分としては、コペルニクス的大転換をしたつもりなのに、もはや何の自慢にもならないのだから、こんな悲しい事は、つまらないことはない(笑)。さいわい、もともと画家を志向していたというわけでもなかったので、救われていると言えたのかもしれない。だから、まだしも社会的な意味のあるデザインの仕事をする事にしたのだと思う。つまり、とりあえず、それで飯が食えそうだとい事でもある。
また、その当時こんなふうにも思った。物質的に充分豊かになった人間は、意識の進化を志向せざるおえない。人は描く事で実存世界と出会い、実存レベルとしての自己実現という意識の進化を志向するのだと。とすれば描く事それ自体に意味があるのであって、もはや鑑賞を主にした美術は終焉するだろうと。しかし、意識の進化を志向する美術は発展していくだろう。したがって、日本の未来は、誰しもがなんらかの形で創作活動に携わる、1億総アーティスト時代が来るかのもしれない。などと思ったのでした。
コメントの返事で、「お楽しみに」と書いたわりにはつまんないかもしれないが、せっかくなのでupしてみた。

日常に埋もれたオプティカルアートに出会って、思い出したものがある。
同心円タイル張りから受けた(動的な回転)感覚は、酒に酔って目がまわる感覚から、酔いを取り除いたような感じ。それが私にはある種のオートマティックな感覚だというふうに感じる。意志なり動力なりをさほど必要とせず、軽ーく動くと言ったような感じ。
 実は、その意味で自分の行為や動作自体に、そのオートマティックな感覚を感じた事がある。それは、20数年も前の、○○を試行した時の感覚である。詳しくは語れないが、会社の旅行で海外に行った際、職場の友人がどこからか手に入れて来たのだった。

吸い出しの感覚はもはや覚えていない。やがて、徐々に体が揺れて来たのを感じた。でも、実際揺れているかどうかは定かではない。あぐらをかいた状態で、体が左右に、自分の意志とは関係なく揺れ動くのだ。手を前に出してみた。すると、苦もなくすーっと動く。ほとんど、動かそうとする意志など不必要な軽さで、スーッと動くのだ。その動きの軽さが、実は、あのオプティカルアートの動きと同じなのだ。そのあと、気がふれた感覚はなく危険な感じはしなかったので、外へでてみた。自分が何をしているか意識はハッキリしているようなのだが、なんだか夢の中にいるような感覚だったのを覚えている。遊離したような感覚だった。

凄い体験をしたと言うような思いはない。なぜなら、そこにあったのは、非日常的な異質な感覚というよりは、どこか日常において印象にのこった感覚の延長上に存在するもののように思えたからだ。
帰って来てから、自分の部屋で瞑想のごとくして、その感覚を思い出そうとしたら、完全に、同じ状態に入れそうになったので、怖くなって必死に止めたのを覚えている。つまり、我々はチューニングを合わせるようにしてそういった感覚に入れるのではないだろうか、とい思うのだった。

私がこの○○とオプティカルアートから受けた感覚の共通性から、次のように発想してしまった。○○が神経伝達物質を利用し、また一部の現代アートが錯視等を利用して、直接物理的身体に働きかけるその方法は、いわば鑑賞力という観る者の能動的な努力を必要としない。鑑賞眼といった、感じ取る力、読み取る力は、能動的努力なくしては、もたらされるモノではないように思う。なぜなら、受動的にただ感じるだけならば、制御できないからだ。制御できないということは、私が思うアートに不可欠である現象学的な還元と構成は不可能と思うからだ。また、アートとは鑑賞者のそういった鑑賞眼も含めて、成立するモノではないかと思うのであった。

つまり、アートは○○のごとくあってはならないのではないかと思うのだった。
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