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発病しないための試み。
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 この明記しがたいことにもかかわるのだが、副次的意識は私たちに容易に、フロイト的な無意識やウィリアム・ジェームズのいう意識の縁暈を想い起こさせる。もう一方の焦点的意識がはっきり意識的なものであるから、副次的意識は無意識や意識の縁暈と同一視されやすい。しかし、彼は断乎として繰りかえし、その副次的意識がそれらのものとちがうと言っている。たとえば、こうである。

《焦点的意識は、もちろん、いつでも十全に意識的である。しかし副次的意識あるいはfrom意識は、識閾下のものから十全に意識的なものまで、どのレヴェルの意識においても存在しうる。ある意識(感知)の在り様を副次的なものにするのは、その機能的な性格である。だからわれわれは、副次的意識の存在をわれわれの身体の内部の諸機能に対してもつまり、直接の経験によってはわれわれに到達できないレヴェルでの諸機能に対しても─一主張することができる》(Meaning,p.39)。

 すなわちポランニーは、暗黙知における第一項と第二項の関係の機能的側面を強調することによって、副次的意識を無意識や意識の縁暈から区別するとともに、基体としての身体の内部の諸機能まで副次的意識にかかわるとしている。この三つは一見結びつきにくいように見えるが、そんなことはない。なぜなら、さきに述べたように、機能的側面のなかには、〈から……へ〉関係とともに〈近接項一遠隔項〉関係を含み、しかも近接項はそのまま基体項であるからである。そこにさらに、暗黙知の第一項と第二項の関係の意味論的側面を考慮に入れれば、もっとはっきりする。つまり、副次的意識はその場合、意味するものと意味されるものとの前者に働くので、記号のもつさまざまなレヴェルにかかわることになるのである。



 さて、このようにポランニーの〈暗黙知〉の基本的な構造とダイナミックスを見、また、そのなかを貫く副次的意識と焦点的意識の在り様を見てきて、次に私は、それらを〈共通感覚〉の考え方とかかわらせて考えることにしたい。この場合、〈共通感覚〉の考え方のなかでとくに問題になるのは、一対の対立概念である体性感覚的統合と視覚的統合、あるいは述語的統合と主語的統合である。体性感覚とは、広義の触覚と運動感覚とを含んだ、われわれ人間の漠然とはしているがベーシックな感覚のことであり、体性感覚的統合とは、諸々の感覚(簡単にいえば五感)の基体的統合を意味している。それに対して、視覚的統合というのは、概念的な把握力に通じる視覚のつよいリードによる諸感覚の統合のことである。私の場合、これらの統合を考えるに至ったのは、アリストテレス的な意味での共通感覚(コイネー・アイステーシス)つまり五感を貫き統合する感覚(*)という着眼を受け継ぎ、自分なりに発展・展開させていって、共通感覚による諸感覚の統合にも、どの主要感覚がリードするかによっていろいろな型のものがあることに気がついたためである。

(*)アリストテレスは共通感覚について、視覚に眼が、聴覚に耳があるような、そういう特定の器官はないとは言っているが、しばしば誤って考えられるように、共通感覚がないなどとは言っていない。だから、特定の器官としての共通感覚というものは存在しないということにはなるが、その点でも、感官というものを主体化せずに作用を担った関係として捉えるならば、共通感覚というのも積極的な意味を帯びてくるのである。

 そして、右のような体性感覚的統合と視覚的統合という対比を諸感覚の統合について考え、提出した上で、私はそれらをそれぞれ、基本的統合と主体的統合、さらには述語的統合と主語的統合というかたちに言い換えた(『共通感覚論』第?章第五節「諸感覚の〈体性感覚〉的統合」を参照)。それは言い換えではあったけれども、私の場合も、ポランニーが副次的意識と焦点的意識について言っているように、体性感覚的統合と視覚的統合という相関概念を、実体的なものから機能的なものに解き放とうとしたからである。つまり、存在の或る在り様を示す、いろいろなレヴェルの実在に適用できる概念にしたいと考えたからである。
 もちろん、私が考えた体性感覚的統合あるいは述語的統合が、ポランニーのいう副次的意識あるいは近接項(基体項)と似ているのは、それに先立って、私のいう共通感覚がポランニーのいう暗黙知とよく似ているからである。さきに私は、後期ヴィトゲンシュタインの論点とポランニーの論点とが重なるところについてギルが行なった指摘のなかから、とくに暗黙知に関係する三点をとり出した。それらを新しく番号を打ちなおして並べてみると、次のようになる。一、われわれは自分の語りうるものより多くのことを、いつでも知りうるし、事実知っているはずである。二、この知は、われわれの個人的な裏づけをもっている。三、そのなかでわれわれが推論する認識論的枠組の実在と性格は、焦点化もされなければ、明示的に分節化もされず、われわれの行動のうちに副次的にあらわれる。
 これらの三点について、共通感覚の考え方から対応しておくと、次のようになるだろう。一、人間の知は、論弁的に語られうるものだけに限定されてはならず、根抵にあってそれを支えるもの(隠瞼的なもの、サブ言語的なもの、など)までも含めて考えるべきである。二、この知は、生きられる身体によってこそ基礎づけられ裏づけられている。三、認識論的枠組や存在の地平は、物ではなくて場所(トポス)であり、主語的なものではなくて述語的なものであり、したがって述語的にしか知りえないだろう。このように対応させてみるとよく分かるのだが、第一の点は、暗黙知と同様に共通感覚も、論弁的に語られうるものだけでなく、サブ言語や非言語的言語の領域までかかわっていることを示し、第二の点は、暗黙知を別の角度から捉えた人格的知(個人的知識)と、共通感覚の発展としてのパトスの知とがいずれも生きられる身体と経験の上に根ざしていることを示している。そして第三の点は、暗黙知も共通感覚もその考え方を突きつめていくと、基体的なものの在り様をどう捉えるかという、伝統的な哲学の言語によってはたいへん捉えにくい問題に出会うことを示している。
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