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発病しないための試み。
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 ポランニーが逆さ眼鏡の話を持ち出すのは、それを用いた人体実験の結果をどう理解し解釈するかを通して、暗黙知の考え方の有効性を示すためであった。そしてポランニーもまた、この問題について誰でも共通の出発点とする1896年のストラットンの実験から話をはじめる。ストラットンはみずから逆さ眼鏡をつけて、逆様になった世界に慣れ適応しうるものかどうか実験した。すると八日ほど経ったところ、逆様になった世界をそれと感じないようになった。ストラットンは、慣れによって視覚像の逆転が訂正されたのだと考え、その説は当時、他の人々によっても確認された。こうして逆さ眼鏡の実験結果は、その後半世紀にわたって、慣れによって視覚像そのものが矯正され逆転されたものと理解されてきた。ところが、今世紀半ばになって、スナイダー/プロンコ(-952)、コッテンホフ(1956)たちの観察によって、視覚像そのものの逆転は八日ほど経っても起きないことが明らかにされた。コッテンホフによれば、慣れによる逆転が実際には起こらないにもかかわらず、被験者が不自由を感じなくなったのは、彼が〈ものの新しい見方〉を獲得したからであり、それが逆になった視覚、筋肉感覚、平衡感覚、聴覚などを調整するのである。もっとも、視覚像それ自身に注意が向けられると、新しい見方による矯正は働かなくなる。そのことはスナイダー/プロンコが指摘しているとおりである。たとえば、逆さ眼鏡をつけても不自由に感じなくなった人が高い建物からそとの景色を見ていた。その人に誰かが突然声をかけ、《あなたにはものがどう見えるか》とたずねると、被験者は答えた。《そういうことをたずねないで欲しかった。そうたずねられなければ景色はふつうに見えたのに、今は逆様に見えるのだから》。コッテンホフとスナイダー/プロンコが明らかにした右のような事実と解釈を推しすすめ、ポランニーは暗黙知のダイナミックスの見地から、次のように説明する。逆転像をそうでなく見させるものはなにか。それは、眼前の光景をコントロールするような仕方で視覚を再編成しようとする想像力の努力である。《まだ副次的な諸細目にもとづかずに諸経験をただ漠然と予知する探究的想像力が、これらの副次的なものを喚起するのであり、こうして〔本来の〕想像力が達成しようとした経験を遂行するのである》。すなわち、ここでポランニーが言わんとしたのは、逆転像をそうでないものに見せる想像力が副次的意識にのっとっているということである。
 この同じ逆さ眼鏡をめぐる問題について『共通感覚論』のなかで述べたのは、次のようなことであった。私の場合もまたストラットンの同じ実験が出発点となり、それに真向から反論したハリスの所説(1966)が、検討される。ハリスによれば逆転像への適応に際して、変化む修正されるのは視覚でなくて身体体の位置感覚である。つまり、触覚が視覚を教育するのではなく、視覚が触覚をつくるのだ、というのであった。こうしたハリスの所説は、実験の上でこれまで見出されてきた多くの事実を、これまでよりもよく説明するものとして、発表以来、知覚心理学界に広く受けいれられた。しかし、私はその主張がいかにもつよい視覚信仰の所産であるように思われてならず、みずから逆さ眼鏡を九日間着用した知覚心理学者牧野達郎氏の実験結果と所説にのっとって、ハリスの主張を退け、被験者の逆転像への適応を、次のような二つの段階から成るものとして捉えた。
 一、自己-外界の正常な知覚体制は逆さ眼鏡の着用によって破壊され、そのために視空間が動揺し、視空間のリアリティが失われる。そうした視空間のリアリティと安定の回復が求められるとき、基準として働くのは身体の位置感覚である。これは、諸感覚の主体的・主語的統合たる視覚的統合が解体して、基体的・述語的統合たる体性感覚的統合が基準になったことである。
 二、視空間がこのようにして安定とリアリティをとりもどすと、こんどは視空間の枠組が定位の基準となって身体の位置感覚を規定し、変えるように働く。これは、右の体性感覚的統合の基礎の上の、主体的・主語的統合たる視覚的統合がともかく再組織されて、こんどはそれが基準となり、逆に体性感覚的統合に規制力をもって働きかけてきたということを意味している。要約するとこのようになることを述べた上で、私はさらに、《《牧野氏はまた、逆転への適応による視空間の正立は持続的ではなくて、断続的で不安定であるといっているが、このことからも体性感覚的統合の基体的な性質が裏づけられるのではなかろうか》と書いた。この正立の視覚が不安定であることについては、牧野氏は、逆さ眼鏡をかけて視野を固定しているとき視野は逆転しているが、視線を動かして〈上〉を見ればたしかに上が見え、〈下〉を見れば下が見えること、つまり、頭や身体の動きが逆さ眼鏡を無効にしてしまう、という興味深い事実を伝えている。私にとってはそのことも体性感覚的統合の一次性を根拠づけてくれるように思ったのであった。またそこで私は、逆転像への適応を体性感覚的統合がもたらすとき、大きく働くのはメルロ=ポンティのいう〈動因としての身体〉による一定の〈空間基準の設定〉であるとした。このようなわけで、逆さ眼鏡による〈視覚像の逆転〉問題についての考察では、ポランニーの所説と私の所説は、実に深く交錯している。私の側からポランニーの所説を見ると、彼の暗黙知と副次的意識の考え方は、その問題を解明するのによく適している。眼を動かしたり頭を動かしたりして、〈から……へ〉注意力を向けるとき、想像力や直観を含んで働くのが副次的意識であるからだ。そしてここまでくると私は、ポランニーのいう副次的意識とは体性感覚的統合の説明原理であるようにさえ思われてくるほどである。また彼は、逆転像への適応に際してなされるものの新しい見方の獲得を、ほかの論文(The Creative Imagination,in Chemical and Engineering, 44, April 1966)では、ものの持つ意味の変化、カオスからの意味の創出として捉えている。そういう関連を持ったものの新しい見方の獲得というのも興味深い考え方である。
 だが、そのものの新しい見方が《逆になった視覚、筋肉感覚、平衡感覚、聴覚などを調整する》というポランニーの説明は、これだけではいかにも不十分であり、分かりにくい。この点については、牧野氏の実験と所説にのっとって、体性感覚的統合の上に再組織された視覚的統合が、こんどは逆に体性感覚的統合の規制力をもって働きかけてくると考えた私の考え方のほうがずっとはっきりすると思う。また、そのものの新しい見方はポランニーでは単に想像力の所産としてしか示されていない。これなども、私がメルロ=ポンティから援用した動因としての身体による一定の空間規準の設定という考え方によって補われるべきだし、ものの新しい見方の持続する機制が考えられるべきだろう。
〈暗黙知〉と〈共通感覚〉の交錯については、ほかにまだ言うべきこともあるが、一まず、以上の考察にとどめておきたい。したがって、ポランニーのいう〈人格的知〉(〈個人的知識〉)と私のいう〈パトスの知〉との交錯については、別の機会に考えることにしたい。
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