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発病しないための試み。
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私が松岡正剛の本を読んだのはたしか『二十一世紀精神』とかいう物理学者との対談集だったように記憶する。もう28年にも前になる。
学生だった私は、京都の下宿の近くでいつものように夕食をすませて、立ち寄った本屋でたまたま手に取り立ち読みした後、おもしろそうだったので、購入した。そのあと下宿に持ち帰り、かなり分厚い本だったにもかかわらず、読み終わった頃には、もう世が明けていたのだから、確か一晩で読んでしまったように思う。
とりあえずその日はすぐに寝床についたがしばらくは、不思議な感覚に落ち入っていたのを覚えている。
その、不思議な感覚とは、地に足が着かない、取りつく島がない、等と言えるような感覚である。おもしろいのだが、なんだか落ち着かないのだ。
それらの内容はといえば、例えばこんな風である。


ものを見るとはどういうことであろうか。われわれの目に入ってくる対象物とは、じつは点の集合であり、それを思考に置き換えた場合、囲りがぼやけている。したがってぼやけてしまったものを、もう一度とり出して描くということはできない。人間は決して自然を再現できない。(津島秀彦)
ヒトが視ようと視まいと、ものはある。存在とはせいぜい「存在の概念」でしかない。(松岡正剛)
自然があり、混沌があり、ついで構造があり、要素が生まれ、擬構造が輩出してふたたび構造があり、やがて混沌さえ構造となって、やはり自然に落ち着く。(松岡正剛)
(『二十一世紀精神』より)

哲学的で抽象的な言説が、それ自体に抵抗があるわけではない。むしろ好んでいるからこそ、その本に惹かれて購入したとも言えるものである。中二の時にブルーバックスではあるが、「相対性理論入門」や「タイムマシーンの話」を解らんなりにでもおもしろがって読む私ではあるのだ。けれども、そこには我々の思いとか、暮らしとかいった、人の存在に結びつくような内容が見つけられない、見あたらないのだ。
当時、一方で読んでいたのが、
『佛教の思想』上山春平/梶山雄一/編
『地獄の思想』『美と宗教の発見』『哲学する心』『笑いの構造』等、梅原猛 『法華経』田村芳朗
『道徳と宗教の二源泉』『創造的進化』ベルグソン
等々なのだから、宗教的、精神的、哲学的色彩が強かったともいえるだろう。

私は思った、なるほどだから『遊』なのかと。
おもしろい、興味深い、けれどそれは知的遊戯でしかないのではないか。
そう思ったのが、その時の感想だった。それ以後も、松岡正剛の関連本はテーマ等はかなり気にはなったりしているのだが、どうもその最初の感想が拭いされない。立ち読みはするのだが、結局買わない。そんな事がなんどもあった。

それが、この度久しぶりに、マイミクさんのブログで知った、『フラジャイル』を読んでみようと思うようになった。なぜならその副題「弱さからの出発」にも表れているように、私の前回の記事でもふれた「人は弱いから発展したのであって、強い事にばかり注目すべきではない。」という主張にかなり近い内容のようだからなのだ。
本日購入してきた、これによって、私のこの考えに厚みと発展をもたらす事を期待したいと思う。
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明けましておめでとうございます。

日記が停滞しています〜。

仕事が思ったより営業よりにならざるおえなく
なってきて営業についてほぼ独学で勉強している。
会社は特に指導みたいなことを
してくれることもないので、手探りである。
ほとんど、考えたこともなかったので
理不尽に思ったりもする。
しかし、いろいろ調べていると、興味深い。
おもしろい。
利益追求だけのような営業には、
決して同意できないけれども、何らかの結果は
出せるのではないかと多少は思えて来た
今日この頃である。

また、休みには子供がコミュニケーションを
とれるようになって来たのもあり、
「どこか行こう」攻撃に合うので、
自分の時間がとりくくなっている。(笑)。
さらに、風邪気味がつづいているので、
無理をしないように気を付けている。
油断すると、寒気とくしゃみ鼻水が、
すぐに襲ってくるのだった。
なので、営業思考と哲学思考が、
まだ喧嘩してまだ仲良くなれていません。(笑)
仲良くなれるのだろうか?(笑)
ぼちぼちやって行きます。

正月そうそう、言い訳でした。(笑)
寒くなって風邪気味がつづいていて、土曜も出勤、
夜更かしをひかえているのもあって、しばらく停滞していますが…。

前回の続きとして、少々…。
人間の優れたところは、仕事が沢山できて、
お金をたくさん稼げて、裕福な、贅沢な、
暮らしができる、みたいな事ではないのではないか、
と言う事を言ってみたかった。
世間がどうもそんな方向ばかりに、
気をとられているように見えるので、
そんな風に言ってみたいのだ。
オプションで凄い道具を身にまとえる、
という事に気をとられすぎではないのか。
つまり、道具の凄さに気をとられすぎ。
オプション化できているという事の方に、
もっと目を向けたほうが良いのだと思う。
参考に前のブログから

(つづく)
能力があるという事が、100%良い事ではないと思う。
例えば人間以外の生物の多くは、
生まれながらにして、生きて行くだけの能力を
既に身に付けている。その意味では、有能なのだ
けれども、人間はどうだ、誰も手をかさなければ、
生きては行けないという、絶望的なほどの無能さを持っている。我々が手に入れた繁栄は、実は無能さに裏付けられているのだと言えなくはないのか。
つまり、我々の能力というものは、オプション装備という事なのだと思う。
だから、能力が高いと言うことは、
標準装備化しているという事なのであって、
それをうらやむ事は、自らの存在意義を見失う
ということでもあるのではないか?
それは、退化への道?
だから、リスクは負わねばならんのだ、
と言うのはおかしいだろうか。

ひねくりまわしすぎたかしら。
すみません。(笑)。
デュシャンとケージに出会ってからほどなく、失画症に陥った。悲しいかな、キュビズムから抽象絵画を経てアンフオルメルにたどり着いた、その傍らで彼らに出会ってしまった。さらに、’50〜’60年代の日本美術界の前衛華やかなりし頃の動向を知ってしまった。描く事の、意味を生成して行くことの驚きと感動を知ったのにもかかわらず、もはや社会的にはなんの意味も持ち得ないと思た。自分が知らなかっただけで、世間では過去のことのようになっていると、理解したからだ。自分としては、コペルニクス的大転換をしたつもりなのに、もはや何の自慢にもならないのだから、こんな悲しい事は、つまらないことはない(笑)。さいわい、もともと画家を志向していたというわけでもなかったので、救われていると言えたのかもしれない。だから、まだしも社会的な意味のあるデザインの仕事をする事にしたのだと思う。つまり、とりあえず、それで飯が食えそうだとい事でもある。
また、その当時こんなふうにも思った。物質的に充分豊かになった人間は、意識の進化を志向せざるおえない。人は描く事で実存世界と出会い、実存レベルとしての自己実現という意識の進化を志向するのだと。とすれば描く事それ自体に意味があるのであって、もはや鑑賞を主にした美術は終焉するだろうと。しかし、意識の進化を志向する美術は発展していくだろう。したがって、日本の未来は、誰しもがなんらかの形で創作活動に携わる、1億総アーティスト時代が来るかのもしれない。などと思ったのでした。
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