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発病しないための試み。
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(暗黙知)と(共通感覚)

さてこの論文の紹介もう少しで終わることとなる。
思えば、最初「要約して」みたいなことを言いながら、
結局その内容のほとんどを紹介してしまった。(笑)
しかし、あらためて読んでみると、どうかすれば、
この内容でも充分なくらい、その二つの理論の概略、
(と言ってしまうのが失礼なくらい)となっているように思える。
という事もあり、要約する事は避けた。
では、残りの2編を今日と明日で紹介してしまおうと思う。




 まことに〈暗黙知〉の動的な活動において、副次的意識は、そのなかに想像力と直観を含んでいる。あるいは少なくとも、暗黙知のダイナミックスのなかでは、副次的意識は、想像力や直観とともに働く、ということができる。すなわち、暗黙知において、副次的意識によって捉えられた要因の細目が、焦点的.意識によって統合化された全体となるとき、そこで働くのは想像力と直観であり、これらの働きなしに、〈から……へ〉の移行、近接項から遠隔項への移行は行なわれえない。暗黙知の働きの一つとしての科学上の発見について考えてみても、最初に働くのは想像力である。探究の対象あるいは目標となる問題さえも、想像力の働きなしには現われ出ない。なお、そのような想像力の活動は、問題解決の糸口がつかまれたときに停止され、統合の直観によってとって代わられる。想像力によって要因の諸細目が解き放たれ、直観によってそれらが新しく統合しなおされるのである。暗黙知におけるこの想像力と直観の働きは、自転車の乗り方を学ぶような感覚運動的な行為を体得するときでも、また、言語を習得するときでも、等しく見られる。たとえば、ひとが言明文をうまくつくれるのは、言表行為に先立って一群のことばが想像力によって活性化されているときである。文としてことばが急いで発せられるときに、役に立ちそうな多くのことばが動員され、用意されるのだ。このあとに、直観が働いて、用意され選ばれたことは群が言明文になるのである。
 このようなわけで、ひとはなぜ、言語の複雑な諸規則を見分け、思い起こし、適用できるのかということを明らかにするのも暗黙知のダイナミックスである。言語活動における意味付与と意味読解も、暗黙知の立場から、仕組が明確化され、広い領域に適用されうるようになる。すなわち、自然のなかでの意味の発見をめざす純粋科学は意味読解の営みであるし、或る目的のために事物を器械化する技術的発明は一種の意味付与として捉えることができる。このように〈暗黙知〉は、想像力と直観を含みつつ、諸分野を横断して働く。しかし、さらにそれは、私たち一人ひとりの身体を基体として働くのである。すなわち、われわれは、他事物に注意を向けるときには、いつでも、自分の身体についての副次的意識に依存している、ということができる。しかも、なにか或る事物を暗黙知の基体項(近接項)として働かせるためには、われわれはそれを自己の身体の内部に統合しなければならない。いいかえれば、われわれはその事物のなかに棲み込まなければならない。暗黙知の一つの働きであるこの棲み込み(in-dwelling)は、ディルタイやリップスのかつて説いた感情移入と似ているようでちがう。というのは、感情移入が入間の内部と外部、人間や芸術と自然・事物・理論の区別にまだ囚われているのに対して、棲み込みは明らかにそれらの区別を突破しているからである。しかもさらにポランニーは、自然科学と人文研究との隔たりを、〈われ─それ〉と〈われ─汝〉の隔たりとして捉えなおしている。そして、その隔たりを架橋する根拠づけを、われ自身の身体についての〈主観的われ─客観的われ〉(〈I─Me〉)の感知(意識)、に求めている。つまり、〈主観的われ─客観的われ〉を含むわれが、自己の身体について感知し、そこに棲み込むことが、すべての棲み込みの出発点になるのである(Knouwing and Being,p.160)従来、哲学的な心身関係論のなかでは、心が身体のなかに棲むという考え方は誤った見解として退けられてきた。が、ポランニーの場合、棲み込みを比喩としてではなく存在の在り様として捉えることによって、かえって、心と身体の関係についても新しい意と見方を与えたのである。そしてこのような棲み込みの考え方は、私が〈共通感覚〉論において、なぜ共通感覚によって他人の立場に立ってものを感じたり考えたりできるか、さらには、諸感覚の統合としての共通感覚が社会の諸成員の間のコモン・センスになりうるか、という問題について考えあぐんだことに対して、大きな示唆を与えてくれる。
 それらの問いに、これまでも私はなにも答えなかったのではなく、共通感覚の働きとしての想像力によって、一応の答えにはしていた。しかし、副次的意識=体性感覚的統合という結びつきにおいて、それらはいずれも棲み込みの一形態として見なすほうが、たしかにずっと説得的である。もっともポランニーは、棲み込みを想像力とほとんど関係づけては考えていない。その理由はさだかではないけれども、おそらく彼の場合、想像力が広い意味での発見(未知なものや新しいものの認知、習得、創作、読解など)の観点からだけ考えられたからであろう。さて、ここに、ポランニーの〈暗黙知〉の理論と、私の〈共通感覚〉論がおのずと出会った個別問題がある。それはほかならぬ〈逆転視野の知覚〉の問題であり、ある意味でここにはこれまで見てきた暗黙知と共通感覚の間の問題が結集されているともいえるのである。そこで最後に、その問題について考えておこう。そして、この問題はポランニーのいろいろな著書や論文のなかで扱われているが、詳しく扱われているのは、『知と存在』(Knouing and Being,pp.198─200)においてである。他方また、私自も『共通感覚論一知の組みかえのために』のなかで(111─135ページで)扱っている。ポランニーの叙述に即してやや立ち入ってみてみることにする。
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