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発病しないための試み。
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先日、たまたまこんな本をネット上で見つけた。

「アスペルガー症候群の天才たち 自閉症と創造性」
マイケル・フィッツジェラルド/著 石坂好樹/訳 花島綾子/訳 太田多紀/訳
星和書店

紹介文にはこうある。
「本書は、天才といわれている著名な6人の歴史的人物を取り上げ、彼らが自閉症あるいはアスペルガー症候群であったことを論じている、天才と自閉症の関連を述べた病跡学の書である。しかし、本書は、病跡学の本にとどまらず、人間の持つ創造性とは何か、その創造性を高めるのに自閉症であることがどのように影響を与えているかを、個々の事例を基にして探求している。さらに本書では、もっと大胆に自閉的思考がないと人類はこのような文明を築けなかったのではないか、と主張する。自閉症は、障碍ではなく、特有の認知スタイルを持った人類の発展に必要な存在であり、そうであるならば、自閉症の進化論的意味が問われなければならないことになる。このことも本書の論点の目玉である。」


価格は、ちょっと私にとっては高めなので、手が出し難い代物である。
興味があるのは、この紹介文の後半にある「自閉的思考がないと人類は〜略〜進化論的意味が問われなければならない。」という内容で、
これは私が以前ブログに書いた内容に近い内容だからだ。

私の場合はこれに加えて、私が影響を受けた学者の多くが、人間を本能の壊れた存在だと見ている点から考えて、それをある種の発達障碍だとするなら、自閉症というのはその人間的特徴を持った最たる存在ではないのかとの、素人ながらの少し乱暴な発想を持っている。

とはいいながら私は以前から、このような自閉症の進化論的な意味を考えることは、そんなに突飛ではない極自然に発想可能な内容であるような気がしていたが、このような本を見つけて、「やっぱりそんな風に考える奴がおってもええよなぁ。」と少し安心したのだった。

自閉症に関して
elekitel.jp/elekitel/special/2003/04/sp_03_a.htm

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明けまして… 風邪ひいた。(笑)

昨年末、会社の忘年会終わってから、風邪をひいてしまった。

 

今回の風邪は熱は初期の2・3日の段階で、

38度ほどあっただけでたいした事はなかったが、

そのあと味覚が失われる、胃腸の調子が良くない、

鼻がムズいて、変なくしゃみがでるなどで、

ずるずる長引いていてもうかれこれ、2週間近くなる。

 

正月、三が日一滴も酒を飲めなかったのは初めてだ。

体調は万全ではない感じだし、

少し思い悩む事もあったりでヘコんでもいるし、

だいぶ間があいてしまってもいるが、

ぼちぼちやるとするか。

 

今日は会社の行事で、明日は会社関連の結婚式だ。

ちょっとゆっくりしたいなぁ。

まぁ、訪問してくれた人。

 

遅ればせの、

明けましておめでとうございます。です。

本年もよろしくお願いします。

 

先日20数年ぶりに兵庫県立美術館でジャコメッティを見た。
見に行ったというわけではないが、(高機能広汎性発達障碍をもつ)我が子に、
少しでもいろいろ経験させてやりたいとの思いで、今回は美術館にいってみたのだった。

今回分った事がひとつ。
以前、ブログに書いた空間変容感覚はまだあった。感じられた。
さすがに、初めて見た時のような、強烈なものは感じられない。
けれども、今回はちょっと違った。

今回、展示している場所には正面から作品に出会うかたちになっている。
私は、展示室に入っていくとすぐにそれがジャコメッティである事が分った。
けれど、以前感じたものが感じられない。
なぜだっ、と…。不思議さと同時に、残念さがこみ上げてきそうになりながらも、
作品の周りをぐるっとめぐりながら、歩いていると…。
あった。以前、感じたものが…。以前ほど強くはないが、確かにある。
どうやら角度とか、距離とかが関係しているようだ。
しかし、他の作品もあるので、思うようにその位置が計れない。
正面からよりも、斜め前方からの方が、それは感じられた。
それも、動いている方があの空間変容感覚は感じられるように思う。
そう思うと、その斜め前方から正面へ移動しつつ見た方が、
実は正面のあの顔の細さの理由が分るように思えた。
とするとさらに、晩年の作品があのように
細くなっていくのが分るような気がするのだった。

ある事柄を検索しょうとして、出くわした。
身近にあった、世にも不思議なモノ。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/work_001.html

興味津々なんだが、調べに行く事もままならない。
まだ、まだ、身近に不思議なことはあるんだなぁ〜。(笑)
検索しょうとした内容はいたって、学術的な内容で…。
ほんまやて〜。うそやないて〜。(笑)

現在進行中の事柄。

丸山
―略―最初の「リンゴ」「非リンゴ」というのは、言語というよりは言語内の“語”ないしは“概念“であって、その外部と行っても、ラングという、体系内の中での外部なんですね。ところが、次に、リンゴであり非リンゴでない存在というのは、今度はランガージュの問題になってくるんですね。
そして三番目の、生命とか意識とか意味のとの関わりというのは、僕の言う、“見分け”と“言分け”の隙間で、そこにレーベンの力というものを考えているわけで、非常に僕は面白く思ったんです。―略―
栗本
―略―丸山さんの言われる第三番目の外部が最も重要な認識です。それを言わなければ言語学一般が完成するわけはない。―略―とにかく第三番目の問題を土俵に上げてみなければバタイユを理解できないデリダと同じだという事になりますよね。
(意味と生命と過剰/対談)

存在者と存在それ自体との差異こそが、対象的認識も言語的現表も不可能な真の意味での存在それ自体であること、「在るモノ」と「在るコト」の差異はこの両項が――で例えば男女の違いとか貧富の差とかの場合のように、AはBでなくBはAでないという仕方で――折半して分担するのではなく、一方的に「在るコト」の側が受け持っているということ、言い換えればコトの側は、それ自身からそれ自身でないないモノを差別するという仕方でそれ自身にとどまりながら、同時にそれ自身とそれ自身でないものとの差異にもなっている、といういわば二重の身分を引き受けているいること、ここにこの差異の特異な構造の謎が潜んでいる。(心の病理を考える/木村敏)

身体はその活動の本拠を閉鎖系としての自分自身のシステムの内部にもっているのではなく、環境とのあいだあるいはその境界面にもっていることになる。(同/木村敏)

私は、抽象絵画に於いては、線(境界)によって仕切られた互いの色面は、どちらかを図とし地として認識しても、それぞれ何らかの造形的な意味を失わないものが抽象度が高い、あるいは平面という性質に即した芸術だと、考えているところがあります。
つまり、相互にゲシュタルト転換が可能であるということ。図と地は、どちらが主でどちらが従でということではなしに、等価であること。(かつての私の言葉)

これらの関係について考えています。

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