発病しないための試み。
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これらは本当に試論の試論。
いや、着想ノート程度のものかもしれない。
忘れないうちメモっておこう。(笑)
違和感自体が我々の存在の、あるいは意識の根拠なのかもしれないと、最近は思い始めている。
我々の存在の根拠たる違和感は、能動性にねざすものであると思う。
問題は境界にあるのかもしれない。
我々自身が、栗本言うところの上下の層の境界存在たる身体のごときモノなのかもしれない。
志向性には
能動的志向性と、受動的志向性がある。
能動的志向性において、はじめて暗黙知は発揮され、
意味生成され、上位が実現されるのではないかと。
受動的志向性によるものが、幻想なのではないのかと、
思うのである。
違和感を感じえなければ、そこには境界の存在、果ては外部の存在さえも感じ得ないということである。
違和感が我々の能動性を喚起し、パーソナルコミットメント(人格参加)を要求するのではないか。違和感を退けるという事は、排除という暴力につながるということなのではないか。
違和感に注目するという事は、フラジリティにつながる
。
「ロバストネス(しなやかな強靭さ)とフラジリティは、あらゆるシステムの表と裏の顔なのだ。」
という言葉を最近知ったが、そうであるなら、フラジリティは強さでもあるということであり、その強さの由来とは「生きる意欲」としての志向性に支えられているからではないのだろうか。
(つづくかも、笑)
いや、着想ノート程度のものかもしれない。
忘れないうちメモっておこう。(笑)
違和感自体が我々の存在の、あるいは意識の根拠なのかもしれないと、最近は思い始めている。
我々の存在の根拠たる違和感は、能動性にねざすものであると思う。
問題は境界にあるのかもしれない。
我々自身が、栗本言うところの上下の層の境界存在たる身体のごときモノなのかもしれない。
志向性には
能動的志向性と、受動的志向性がある。
能動的志向性において、はじめて暗黙知は発揮され、
意味生成され、上位が実現されるのではないかと。
受動的志向性によるものが、幻想なのではないのかと、
思うのである。
違和感を感じえなければ、そこには境界の存在、果ては外部の存在さえも感じ得ないということである。
違和感が我々の能動性を喚起し、パーソナルコミットメント(人格参加)を要求するのではないか。違和感を退けるという事は、排除という暴力につながるということなのではないか。
違和感に注目するという事は、フラジリティにつながる
。
「ロバストネス(しなやかな強靭さ)とフラジリティは、あらゆるシステムの表と裏の顔なのだ。」
という言葉を最近知ったが、そうであるなら、フラジリティは強さでもあるということであり、その強さの由来とは「生きる意欲」としての志向性に支えられているからではないのだろうか。
(つづくかも、笑)
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違和感 2008/06/18 23:32
>違和感を退けるという事は、排除という暴力につながるということなのではないか。
この観点を自分なりに敷衍したいと思います。
『意味と生命』のどこかに書いてあったのですが、何も意識していない状態というのは、自他を区別していないわけで、全てが自分にとっての「内部」であると。逆に、何かを意識するという事は、その対象物を「内部」から排除して外部化する行為だと。そのような説明がありました。
で、外部として排除されたものは、もう一段高いレベルで統合されることで、もう一度「内部」化される必要があると思います。外部化⇒上位層の実現⇒内部化という3ステップで一つのサイクルが完結するんだと思います。
私が気になるのは、最初の「外部化」の段階で停止してしまう(もしくは停止を強制する)行為が、世の中の問題の元凶ではないか・・と感じています。
「何か変だな」と違和感を感じたとき、「でも、今までも大丈夫だったし、このままでも大丈夫だろう」と自分に言い聞かせる事がよくあります。その後も違和感はずっと感じているのに、「大丈夫、大丈夫」と目を逸らし続けたりします。これはつまり「違和感を感じる=ある事柄を外部化している」のに、それを内部化するための上位層を創発しようとせずに、放置しているわけです。
卑近な例で言えば、年金制度は危ういのでは?と誰もが「違和感」を感じていながら、「いや大丈夫、何とかなる」と放置していた事なんかは、そうだと思います。本当ならその違和感を通じて、年金制度を位置づけなおす上位層を創発すべきであったのに、そうしなかった事が社会的混乱を招いています。
別な例として、いわゆる機能不全家族に育つ子供は、親に対する「違和感」を感じていても、「いや大丈夫、親は自分の事を愛してくれてるはず」と思い込もうとします。でも本当は、「親は自分の事を愛していない」という事実を含んだ上位層を創発して、本人にとっての親子関係を位置付けなおす必要がある訳です。そう出来ないために子供は苦しみます。
「一生安泰な年金」という幻想が「どう見ても破綻する年金」という現実とズレている。「親に愛されている自分」という幻想が「親に愛されていない自分」という現実とズレている。・・この違和感を内部化せずに放置すると、社会でも人間でも、病んでしまいます。
だから「違和感に気づいていながら退けてしまう」行為は、苦しみの元凶という気がします。
(試論とは話がズレてしまいましたが・・)
この観点を自分なりに敷衍したいと思います。
『意味と生命』のどこかに書いてあったのですが、何も意識していない状態というのは、自他を区別していないわけで、全てが自分にとっての「内部」であると。逆に、何かを意識するという事は、その対象物を「内部」から排除して外部化する行為だと。そのような説明がありました。
で、外部として排除されたものは、もう一段高いレベルで統合されることで、もう一度「内部」化される必要があると思います。外部化⇒上位層の実現⇒内部化という3ステップで一つのサイクルが完結するんだと思います。
私が気になるのは、最初の「外部化」の段階で停止してしまう(もしくは停止を強制する)行為が、世の中の問題の元凶ではないか・・と感じています。
「何か変だな」と違和感を感じたとき、「でも、今までも大丈夫だったし、このままでも大丈夫だろう」と自分に言い聞かせる事がよくあります。その後も違和感はずっと感じているのに、「大丈夫、大丈夫」と目を逸らし続けたりします。これはつまり「違和感を感じる=ある事柄を外部化している」のに、それを内部化するための上位層を創発しようとせずに、放置しているわけです。
卑近な例で言えば、年金制度は危ういのでは?と誰もが「違和感」を感じていながら、「いや大丈夫、何とかなる」と放置していた事なんかは、そうだと思います。本当ならその違和感を通じて、年金制度を位置づけなおす上位層を創発すべきであったのに、そうしなかった事が社会的混乱を招いています。
別な例として、いわゆる機能不全家族に育つ子供は、親に対する「違和感」を感じていても、「いや大丈夫、親は自分の事を愛してくれてるはず」と思い込もうとします。でも本当は、「親は自分の事を愛していない」という事実を含んだ上位層を創発して、本人にとっての親子関係を位置付けなおす必要がある訳です。そう出来ないために子供は苦しみます。
「一生安泰な年金」という幻想が「どう見ても破綻する年金」という現実とズレている。「親に愛されている自分」という幻想が「親に愛されていない自分」という現実とズレている。・・この違和感を内部化せずに放置すると、社会でも人間でも、病んでしまいます。
だから「違和感に気づいていながら退けてしまう」行為は、苦しみの元凶という気がします。
(試論とは話がズレてしまいましたが・・)
Re:違和感
コメントありがとうございます。
>外部として排除されたものは、もう一段高いレベルで統合されることで、もう一度「内部」化される必要があると思います。外部化⇒上位層の実現⇒内部化という3ステップで一つのサイクルが完結するんだと思います。
orBITさんの仰ることは、私の理解するところでは、それは例えば精神分析や分析心理学等において、無意識の投影(外部化)により発生する他者への排他性ないし攻撃性を、意識あるいは自己像の改変(パラダイムシフト等)によって内部化し再統合する事で、解消しようとする事なんではないだろうかと思っています。
私も実は長らくそういった理解、あるいはその延長で理解しようとしてきたように思います。
しかし、ここで述べようとするのは、それとは少し異なるのです。
ここでいう違和感とは、解消するモノでも、されるべきモノでもないのです。ここで述べたごとく、それ自体が意識の根拠のようなものなのではないかと、考えているところです。
意識を生んだのは物的基質による条件だが、意識は逆に物的基質に働きかけねば生き延びられない。意識を持つ機能原理たる中心は、もしも対抗しなければ自らが圧倒され消滅させられる状況の中にたっている。対抗しなければ潰されてしまう危険、対抗しなければ外部を内部から隔てている境界が境界でなくなり外部が内部に浸食してくる危険が人格性の活発化を要求する。人格的参加はこのとき発動する。そして、発動しなければ個体及び種の死があるだけだ。
「意味と生命」241P
近々ここらへんの事について、木村敏、茂木健一郎、ラマチャンドラン、等の論を引き合いに出して、(せまい守備範囲ながら)まとめてみようかなと思っています。
眠いので、今日はこの辺で失礼します。
>外部として排除されたものは、もう一段高いレベルで統合されることで、もう一度「内部」化される必要があると思います。外部化⇒上位層の実現⇒内部化という3ステップで一つのサイクルが完結するんだと思います。
orBITさんの仰ることは、私の理解するところでは、それは例えば精神分析や分析心理学等において、無意識の投影(外部化)により発生する他者への排他性ないし攻撃性を、意識あるいは自己像の改変(パラダイムシフト等)によって内部化し再統合する事で、解消しようとする事なんではないだろうかと思っています。
私も実は長らくそういった理解、あるいはその延長で理解しようとしてきたように思います。
しかし、ここで述べようとするのは、それとは少し異なるのです。
ここでいう違和感とは、解消するモノでも、されるべきモノでもないのです。ここで述べたごとく、それ自体が意識の根拠のようなものなのではないかと、考えているところです。
意識を生んだのは物的基質による条件だが、意識は逆に物的基質に働きかけねば生き延びられない。意識を持つ機能原理たる中心は、もしも対抗しなければ自らが圧倒され消滅させられる状況の中にたっている。対抗しなければ潰されてしまう危険、対抗しなければ外部を内部から隔てている境界が境界でなくなり外部が内部に浸食してくる危険が人格性の活発化を要求する。人格的参加はこのとき発動する。そして、発動しなければ個体及び種の死があるだけだ。
「意味と生命」241P
近々ここらへんの事について、木村敏、茂木健一郎、ラマチャンドラン、等の論を引き合いに出して、(せまい守備範囲ながら)まとめてみようかなと思っています。
眠いので、今日はこの辺で失礼します。
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