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発病しないための試み。
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『フラジャイル』を読みながら思った事がある。
「全体から断片へ」といい、「ネオテニー」といい、「欠けた王」果は、「境界をまたぐ」から「A10神経」等々まで栗本的要素ふんだんと思えるこの内容に、なぜかもの足らなさを感じてしまう。

栗本氏には何かわくわくするような、とても惹き付けられるような記述がある。たぶん、松岡氏もしきり言うようにそこには示唆的な要素がふんだんにあるからではないのだろうか。そんな記述の一つとして、ここに紹介したいと思う一節がある。私がとても好きな栗本節(ぶし)の一つであるといえるのではないだろうか。「反文学論」の「意識のレクイエム」(バタイユにおける〈外在性〉または〈非知〉の宇宙)から…。


意識のエネルギー

意識はその表層の個的意識とは異なった側面を持つ。いうなれば、意識性とでもいうべきエネルギーを有している。その意識性は、表面の意識それ自体が我々に対して説明してくれる意味性とは異なって、対象の関係づけ、ないし、対象の意味性の創出それ自体をも行うのである。これが、私の概念による「意識のエネルギー」である。「意識の無意識的なエネルギー」というようなレトリカルな言い方をすると通づるようなところがある。
勿論「意識のエネルギー」は、あるいはその基礎となる「意識性」は、深層の無意識とは異なる次元のものだ。深層にある普遍的無意識は、我々の考えでは、より普遍動物的なものであり、それだけではエロティシズムに到達しない。また、共同あるいは個別的な幻想をも作り出さないことは明らかである。これが、我々が、社会のすべての問題を無意識とか内部の“実体”の表層への表出プロセスとみるような単純な議論と決別する理由である。そして、意識のエネルギーを持つことが、人間と他の動物を分ける理由である。だから、意識のエネルギーあるいは意識は人間にとって「パンツ」のひとつである。
体内の深層の生命潮流は、つねに意識に働きかけ、その大きな部分を司ってはいるが、それとせめぎあうかのように〈死〉への衝動や期待感をも秘めこんでいる。それも決して、見えないような深い深い深層でないことは明らかで…(中略)
バタイユはしかし、この「意識のエネルギー」を過剰の貯めこみと、「呪われた部分」の蕩尽、破壊の衝動としてパターン化したのであって、エロティシズムはその重要な概念として、蕩尽へのぎりぎりの期待感の赤く充血した「関係」状態を措定するものなのである。
「思考(反省)さえもが私たちのなかでは、過剰のかたちのもとではじめて完成させられるのだ。恍惚の間における、耐えがたい快楽のように、目に入る限界を越えた者ものを見ることができないとすれば、思考の限界を越えたものを思考することはできないとすれば、過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?…悲鳴ととともに、自らへの不寛容のなかに沈むことが自らを無に帰する、この悲愴な省察の行きつく果てに、私たちは神を見出すのだ。(バタイユ)」(中略)だから、当然のことながら、バタイユ的な問題の本質は、死や暴力への恐れや陶酔ではない。人間存在の内部の〈神〉なる〈外在性〉への透視なのである。そして、その〈外在性〉とは、おそろしいことに我々とは別の生き物なのではないかという恐怖と憤怒。

ここからはちょっと、自分なりに書いてみます。「反文学論」は、1984年頃のものだが「意味と生命」が出る前としては、この部分は一番好きな文章と言っても良いかもしれない。なんだか、切実な感じが…。過剰ー蕩尽といったものが、ストレス発散や抑圧された本能的破壊欲求の解消と言ったような、単純な議論ではなく、ましてやそれを人間の悪しき行動様式の本質とする事で、新たな抑圧の対象とするといった議論でもまったくないことが、ここからよくよく汲取られるように思う。
「意識の無意識的なエネルギー」といい「見えないような深い深い深層でない」と言い我々のすぐそばに過剰ー蕩尽ならしめる人間存在の内部の〈神〉がいるように思われてならなくなってくる。このことで、思い出されたのが、精神分析の「自我の防衛規制」。簡単に説明するなら、自我は自分に都合の悪いことは現実を歪曲するってことらしいが、それが我々には気づかれないうちに、行われているって事を思いだした。あるいは、統合失調症だって、狂っているから幻覚が生じるというよりは、内部と外部のつじつまを合わせようとするために幻覚が生じる。つまり自我が崩壊しそうになっているにも関わらず、補償作用が生じているってことで、「自我の防衛規制」にしろなんにしろ、これは実のところもはや自我が取り仕切っているのではない。では何が?誰が?それ(補償作用)を行おうとしているのだ?などと思うのだった。
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栗本理論とここで再会 2008/05/13 19:02
通りすがりです。
最近、暇つぶしに昔の本棚を漁っていたら栗本氏の『パンツをはいたサル』を見つけて読み返し、連鎖反応で『パンツを捨てるサル』『都市は発狂する』『反文学論』『意味と生命』と読み進めました。
で、ずっと意識の成立過程について考えていたのですが、層の理論からすれば、意識というのはその下位原理であるイメージとしての身体が必要とするからこそ成立している訳で・・と思い、本棚をふと見たら木村敏氏の『時間と自己』があったのでヒントを求めて読み返し、ついでに「木村敏 暗黙知」でググったら、こちらの過去記事がヒットして、よくよく見れば栗本理論について言及があり、なんだか嬉しくてコメントを書いてるという・・そんな次第です。
WEB上でまともに栗本理論を考察しているサイトに初めて出会ったのは僥倖です。
orBIT EDIT
Re:栗本理論とここで再会 2008/05/19 00:44
貴重なコメントありがとうございます。
返事が遅くなりまして。まことに申し訳ないです。
仕事は一段落つきましたが、
このところ、風邪気味の体調の不良と、
いろいろ考えるところ、思うところが多くて、
まとまらないなど、筆がすすまなくなっています。
書き続ける気はありますので、
これに懲りずまた、見に来て下さい。
ありがとうございました。
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