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発病しないための試み。
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現在進行中の事柄。

丸山
―略―最初の「リンゴ」「非リンゴ」というのは、言語というよりは言語内の“語”ないしは“概念“であって、その外部と行っても、ラングという、体系内の中での外部なんですね。ところが、次に、リンゴであり非リンゴでない存在というのは、今度はランガージュの問題になってくるんですね。
そして三番目の、生命とか意識とか意味のとの関わりというのは、僕の言う、“見分け”と“言分け”の隙間で、そこにレーベンの力というものを考えているわけで、非常に僕は面白く思ったんです。―略―
栗本
―略―丸山さんの言われる第三番目の外部が最も重要な認識です。それを言わなければ言語学一般が完成するわけはない。―略―とにかく第三番目の問題を土俵に上げてみなければバタイユを理解できないデリダと同じだという事になりますよね。
(意味と生命と過剰/対談)

存在者と存在それ自体との差異こそが、対象的認識も言語的現表も不可能な真の意味での存在それ自体であること、「在るモノ」と「在るコト」の差異はこの両項が――で例えば男女の違いとか貧富の差とかの場合のように、AはBでなくBはAでないという仕方で――折半して分担するのではなく、一方的に「在るコト」の側が受け持っているということ、言い換えればコトの側は、それ自身からそれ自身でないないモノを差別するという仕方でそれ自身にとどまりながら、同時にそれ自身とそれ自身でないものとの差異にもなっている、といういわば二重の身分を引き受けているいること、ここにこの差異の特異な構造の謎が潜んでいる。(心の病理を考える/木村敏)

身体はその活動の本拠を閉鎖系としての自分自身のシステムの内部にもっているのではなく、環境とのあいだあるいはその境界面にもっていることになる。(同/木村敏)

私は、抽象絵画に於いては、線(境界)によって仕切られた互いの色面は、どちらかを図とし地として認識しても、それぞれ何らかの造形的な意味を失わないものが抽象度が高い、あるいは平面という性質に即した芸術だと、考えているところがあります。
つまり、相互にゲシュタルト転換が可能であるということ。図と地は、どちらが主でどちらが従でということではなしに、等価であること。(かつての私の言葉)

これらの関係について考えています。

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