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発病しないための試み。
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要望があったので、
ひとまず、試みに途中まで、書き写してみる。

〈暗黙知〉と〈共通感覚〉マイケル・ボランニー読解序説 中村雄二郎

かねがね、マイケル・ポランニーの〈暗黙知〉の考え方は私の〈共通感覚〉の考え方とよく似ていると思っていたが、さらに彼の〈人格的知〉(〈個人的知識〉とも訳される)も私の〈共通感覚〉の発展としての〈パトスの知〉と通じるところがあり、ポランニーの考え方と私の考え方では交錯するところが実に多い。しかも、その交錯するところに現代哲学の大きな諸問題が横たわっている。だから、余計にポランニーは私にとって避けてとおることのできない存在なのだ。ところが、ポランニーは私にとってそういう存在でありながら、接近しようと思ってもなかなかうまくいかない。まったくこれはなんという、取っつきにくく、掴えにくく、突っこみにくい理論だろう。それだけ在来の、既成の思考方法とちがうといえば、そうにちがいないが、それにしてもこんなに立ち入りにくい理論は少ない。ふつういう意味で術語や表現が難解なわけではないし、議論が抽象的な話に終始しているわけでもない。それなのに、ポランニーを扱うと、多くの場合に、そのまわりをぐるぐるまわるだけになってしまうのである。ポランニーの理論に共感し、それを高く評価してきた人々は、その点についてどう考えているのだろうか、と思ったら、その点に率直にふれた、ちょっと異例というべき、変わった文章があるのを知った。それは、マイケル・ポランニーに捧げられ、彼の思想を多くの人たちが論じた論集の序論だというのに、次のようなことばで書き出されているのである。《ポランニーの主著たる『個人的知識』(『人格的知』)は腹立たしい本である。それは好感のもてる本どころではなく、およそその反対だ》。この論集はT・A・ラングフォードとW・H・ポティートの二人が編者となった『知性と希望マイケル・ポランニーの思想について』(一九六九年)であり、問題のその序論は、「『個人的知識』を読むための最初の手引き」と題されている。今、引いた個所のつづきを、もう少し紹介しておくと《この本は或る読者たちにとっては、大した知的鋭敏さがなくとも防げる全体的な立論や幻影に反論した本に見えようし、他の読者たちにとっては、それはあまりによく出来すぎているので正しくなく、あまりに明白なので重要でなく、あまり簡明なので愚か者でも相手にしないという代物だ。さらに他の読者たちにとってはどうかというと、この本からは事物の包括的な見方は与えられるが、どんなに根気よく思いやりのある読者でも、苦心した挙句に手に入るのはただ束の間の一貫性をもった見方だけである。また、読者の最初抱いた躊躇が克服されて、この本の中心的主題や全体的企図が明確にされるようになったところで、それらは根本的にいって不安定なことを露呈するだろうし、解体するのが落ちだろう云々》。こういった調子でこの序文はまだ延々とつづく。そのもう少しあとのところまで掻いつまんでおくと、そこではこう言われている。読者はこの本を読みすすめていくと、明記されていない道に微妙なかたちで引き入れられ、それまでに要求されていた理論上の決然とした態度も、また著者の人間的な誘いにもとづく豊かな出会いも、捨てさせられる。そういうわけで、この本は或るレヴェルで見るならば、無意味であろう。しかし他のレヴェルで見るときには、この本は新しい種類の意味を,示唆していることを知らなければならない。この新種の意味は、既成の見方や立場からでは到底信じられず、ただ怖れられるだωなのだ、と編者たちは書いている。たしかに、一般的にいってポランニーの叙述には、一種の混乱があり、繰りかえしが目立ち、枝葉末節への囚われがあり、あいまいなところが少なくないが、それにもかかわらず、まぎれもなくそこには多くの新しい着眼があり、すぐれた洞察がある。いったいどうしたら、それらを理論的に掴みなおし、先におしすすめることができるのだろうか。私の見るところ、ポランニーの理論が分かりにくいのは、その着眼、着想の数々を一挙にいろいろなレヴェルに当てはめようと欲する一方、そのときどきに個別的な或る事態を示す概念を好んで用いるためである。したがって、彼の言っていることをただあれこれ集めてム、立ち入ったかたちで包括的に理解することはできない。そこ0必要なことの一つは、彼の理論の諸論点の基本形態を捉えることであり、もう一つは、問題を共有する他の諸理論との異同をとおしてあいまいな部分や側面を明らかにすることである。ところで、現代哲学のなかですぐにマイケル・ポランニーとの問題の重なり合いを感じさせるのは、ほかの誰よりもヴィトゲンシュタインである。

(続く)
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『共通感覚論』について少し書いてみる。
共通感覚とは、もうほんとに平たく言って“常識”というものを、感じ取る感覚といっていいだろう。しかし、ここでいう“常識”は「社会規範」や「一般教養」といった部類の、知識として身につけれるような、あるいは私たち自身が依拠しなければならないモノとは少しちがう。このような一般的な常識に対する我々のいわば“常識感覚”とでも呼べそうな、既存の“常識”に従属的にはたらく感覚とはちがい、むしろそれらの“常識”を必要に応じて自在に使い分けたり、さらには“常識”といったものの成立過程においてさえはたらく重要な感覚ということなのだと思う。
 つまり“常識”といった社会生活にはなくてはならない規範をよりよく使いこなすには、普段我々が行っている従属的な“常識感覚”ではなく、もう一歩も二歩も踏み込んだ“共通感覚”といった、いわばメタ感覚とでもよべそうなものでなくてはならない、と言ってるように思える。また、私たちの“常識”はそういった感覚によって生み出されたものが、惰性化し硬直化したもので、それは時に応じて“共通感覚”によって刷新されなければならず、したがって“常識”と“共通感覚”はいわば弁証法的な関係にあると言う事なのだと思う。

そもそも「共通感覚」という言葉を知ったのは、木村敏(現象学的精神病理学)氏の「異常の構造」(講談社現代新書)を読んだところによる。当時絵を描く事(ことに抽象絵画)を通じて、「確かなもの」とういうものが自分の内側(感覚)にあるのだとうことに気づいていた私は、心理学を専攻する知人(正確にはその本棚)を切っ掛けとして、心とか感覚とか認識と言った事が、物事について考えるのに(現象学的な意味合いにおいて)非常に重要なものではないかという発想をもっていた。
しかし、一方で抽象絵画の開眼とそしてそれへの理解が進行するにつれて、それらがいったい美術や芸術といった文脈以外の一般にとってなんの意味があるのかを考えていた私には、木村敏氏の言う
「共通感覚が個々の感覚に含まれていながら、それらの感覚に固有のものではなく、他の種類の感覚にも移し変える事の出来るような、ある種の感触ないしは気分であるという場合、これはこの共通感覚が個人の有機体の内部に生じる感覚生理的なプロセスではなく、すでに個人内部の領域をはみ出した、自己と世界との関係の仕方にかかわるものだと言う意味をもっている。」
このような「共通感覚」は至極有用な論点であった。

私にとっての「共通感覚」は、抽象絵画への開眼のときに働いていたものと近いものであると言う考えをもっている。そのとき私にはパラダイムシフトとかゲシュタルト転換といった内容のものが発生していたのだと思う。だから『共通感覚論』の副題が「知の組みかえのために」とあるのは、非常にすんなり入ってくる。哲学書にこんな事を求めるのは間違いなのかもしれないけれども、『共通感覚論』を読んでいても、ゲシュタルト転換やパラダイムシフトに通じるような感覚が生じないのだ。全部が理解出来ているとは言わないけれど、書かれている内容はどれも説得的で、優れたものであると思う。けれども今ひとつ、私においてその精神にパラダイムシフトを生じせしめ、共通感覚を呼び覚まさせてはくれていなかったように思う。それが、私をして今ひとつ『共通感覚論』にノッて行けなかったところなのではなかったかと、今さら思い起こされるのだった。しかし、今またこう書きながらもパラパラとめくっていくと、自分が読めていなかったと思われるところも感じられる。また、最後の方に残された問題として、リズムのことや場所のことについて触れてあり、その事は気になってずっと記憶に残っていた。それが、今少しずつ読んでいる「かたちのオデッセイ」において引き継がれているようで、非常に興味深い。「かたちのオデッセイ」では、私が発想としては持っていた事柄との類縁性も感じられるように思っている。例えばそれは、私のいう「ゲシュタルト」とそこで語られている「モルフェ」は近いものであるように思う。出来れば、近いうちにそのようなことも書ければ良いかなと思うのだった。


多重フレームモデル

脳には機能モジュールが存在することは疑う余地はないが、それらの機能モジュールの詳細がすべてわかったとしても、心のモデルがわかったとは言いがたい。脳の機能モジュールが全体としてどのように働くのかということを明らかにするためには、脳の内部だけではなく身体との相互作用、ヒトの群れ全体を視野に入れた、知のメカニズムをモデル化する必要がある。そのための一歩としては脳の機能の一つ一つに焦点を絞るよりも、脳の大まかなモデルを想定してできるだけ簡単に表すことにより、他のヒトとの相互作用を論じることが賢明と思われる。そこで脳科学者の澤口俊之が提案した脳のモデル、すなわち多重フレームモデルを採用したい。

多重フレームモデルは脳内における機能モデュールの並列性、階層性を実現するための生理学的なモデルであり、次のように定義されている。

1 コラムは数万個の神経細胞を含み、幅0.5〜1ミリ、高さ2〜3ミリの円柱
(ないし直方体)状の形をして、大脳新皮質の表面に対して垂直に並ぶ。

2モジュールはいくつかのコラムが集まったものであり、
 フレームはモジュールが階層的に配列したものである。

3フレームは入力系、出力系と両者を統合する統合系をもつ。

4入力系は視覚野をはじめとした一連の感覚領野群、
 出力系は運動領野群、統合系は連合野の領野群により形成される。

5答フレームはさらに小さな「サブフレーム」に分けられ、
 そのどれもが同じような構造をもつ。つまり、入れ子構造となる。

6サブフレームはさらに「サブサブフレーム」に分けられ、
 いいかえれば、どの拡大卒でも同様の「フレーム構造」がみえる。

 ワーキングメモリのところで示したフスターの仮説も階層構造を示しているが、前頭連合野を頂点としているため意識的で高次な行動のみに限定される。澤口のモデルは意識のみではなく、身体運動を伴う無意識的な活動や、身体運動を伴わない意識的な活動などのすべての知の活動に応用できる汎用性がある。ここで記憶に留めておいてほしいことは、多重フレームモデルによれば、脳という身体の部位において外界の環境から得られる情報を感知し、統合し、制御する機能が局在し、それらが並列階層構造をもっということである。多重フレームモデルは後に述べる暗黙知理論を実現するための脳神経科学的な基盤となりうる。暗黙知理論はさらにその後に述べるミーム論を基礎づける。
先に述べた認識のゲシュタルト的性質に関する
具体的資料をここに紹介したいと思う。

音楽の基本的体験というものは(どんな基本的体験でも同じだが)ホリスティックあるいはゲシュタルト的性質をもっている。それを痛切に感じたのは、もう何年も前、友人がジャズについて教えてほしいと頼んできたときのことだ。頼みを聞き入れた私は、いっしょにレコードを聴きながら、その曲について話し合う事にした。曲の途中で、アルトサックスの音を聞いてみてとか、ベースの音を聞いて、トロンボーンに耳を傾けて、と指示をする。ところが友人は、それぞれの楽器が弾いているメロディーを聞き分けることが出来なかった。まして、そのメロディーラインについて私が指摘していたポイントなど、分るはずもなかった。友人は曲全体の感じはとらえることはできたが、それをいくつもの楽器が演奏する音に分け、別々に認識するのは難しかったようだ。—略—
大脳新皮質には、韻律の整ったものも整わないものも含め、リズム、音色、休止、メロディーの形状、ハーモニーを感知するような特化された領域がある。ところが音楽のこれらの要素を他の要素と区別してはっきり聴き分け、また自分でコントロールできるようになるためには、特別な文化的「チューニング」が必要だ。文化的進化の長いプロセスを経てはじめて、リズム、メロディー、ハーモニーのコントロールをはっきり区別できるようになる。(音楽する脳/ウィリアム・ベンソンより)

ゲシュタルトという概念は今後、このブログでも重要となると思われ、
しかも以外と知られていない、知っていても理解が不十分ともおもわれるので、
考察してみた。
「見える」と「見えない」はなぜ存在するのか。

見えない次元は誰の目にも見えている。
目の前に見える形で、存在している。
それは、我々の認識の構造に仕掛けがある。
その認識の構造とは、ゲシュタルト的性質ということだ。

ゲシュタルト(直訳では形態)とは、以前、意味のあるまとまりと言った。
我々人間は常に、世界に、物事に対して意味のあるまとまりとして、
すなわち意味付与して、概念化する事で生活して生きている。
我々の暮らしの中にはゲシュタルトが溢れている。
目を覚ますと時計を見る、時計も「時間を計測するもの」
で構成されたゲシュタルトである。
正面に1から12までの数字がならぶ、インテリアではないのだ。
ゲシュタルトは個別に存在するだけでなく、グループ化したり連携したりして、
複合的多層的構造を形成していて、それらのぞれぞれに対しても
ゲシュタルトが形成されていると言っていい。

例えばこのようなもの(^_^;)は、認識のゲシュタルト的性質があってこそ
理解できるものとなる。つまり、これは部分として見るなら
(と^と_と^と;と)の文字なのだが、これをあくまで文字として見るなら、
何が書かれているのか全く理解できないものとなる。
絵なのだ、文字を使って全体として絵として構成されている
ゲシュタルトなんだという設定がなされて、初めて理解可能なものとなる。

大事なのはこの次だ、ゲシュタルトは全体を網羅しているわけではない。
部分部分を拾い上げて意味のあるまとまりに構成している。
あるいは、まとまった形にするには、全体を拾う事はできないとも言える。
だから、使われていない情報があるのだ。
しかも、我々には見えていながら、使われていないのだ。

だから、見えない次元が存在するのだ。

一旦できた、このゲシュタルトの認識構造が邪魔をして、
他にも存在している他のゲシュタルト、すなわち意味ある形態を
見えなくさせているからだ。

しかもゲシュタルトとは、一旦形成されてしまうと、
容易に崩しがたい性質を持っているからだ。
つまり一旦(^_^;)を絵文字と認識してしまったら
(と^と_と^と;と)の文字だという認識には
余程の必要性がない限り変更不可能である。
さらに、ゲシュタルトは個別で存在するのではなく、
他との連携構造を持っているので、その存在は強固なのである。

あるいは、いまの認識構造を支配しているゲシュタルト以外の
ゲシュタルト構造がある事を知らないからとも言える。
いや、ゲシュタルトであるという事自体が認識されていない。
つまり、そもそも意味というものが我々の考えている程、
全体的で確定的なものではないということなのだ。

そして、実はスピリチュアルという一般には見えないと
される部類のものも例外ではなく、
この我々の認識がもつゲシュタルト的性質を理解すれば、
何ゆえに「見える」と「見えない」があるのかが解るのではないだろうか。

私の知る限りアートに於ける「見える」と「見えない」は
あきらかにそういう性質のものである。

世界のゲシュタルト的構造を理解しましょう。
我々の認識のゲシュタルト的性質を知りましょう。
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