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発病しないための試み。
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最近仕事が忙しくなっている。
制作の仕事が忙しくなっている。
昨日も仕事だった。
5月の連休ぐらいまでは、忙しいだろうか…。

ほんとは余裕はないけれど、
でも最近はアフォーダンスについて考えている。(笑)
自分なりの、新しい理解の地平に立っていると感じる。
が、自信があるわけではない。試論である。
間違いは、指摘してほしい。(笑)

新しい本でも、見解でもないようだが、
「脳はいかに美を感じるか/セミール・ゼキ」
を図書館で借りて読んでいたところ、
抽象絵画が脳生理学の前を走っていると言ったような
事が書いてあったように思えた。
そんな風に思ったところから、事は始まった。
確かに、我々は様々な形や色、角度、質感等に反応する内面の有様を常に感じている。
それら画家が感じて発した言葉や、作品といったものが脳生理学を裏付けるようなものであったらしい。
あっ、いや逆だ、脳生理学の成果がアートの裏付けのようなものになっていると言っているように、私には思えた。つまり、抽象絵画は脳の反応に忠実に造られている、ということでもあるのようなのだ。
もう、返してしまったので、細かい事は忘れてしまったが、
総じて(抽象)画家というものは、いわゆる自然には発生しないような、あるいはただ漠然と自然を見ているだけでは発生しない、脳の使い方をしているようなのだ。

そして、そうだ脳と言えば、と思って2年程前に読んだ「心を生み出す脳のシステム/茂木健一郎」をめくってみると、同じような視覚に対する脳の部位の活性化の事が書いてあるのが見られた。
良く読んでみると、志向性ということとからめて、いろいろ書いてある。以前にも読んだはずなのに、その時は「何を今更、そんなことは現象学等で、随分前から探求されている」と今ひとつ関心を持ち得なかった。
しかし、今回は微妙なニュアンスで、なる程と思えるところがいくつか目に着いた。例えば…。

シンボルは意味を担う志向性を喚起するに過ぎないのであって、シンボル自体が何かを表すのではない。

身体の姿勢や、運動に関する制御は、多くの場合無意識のプロセス(ボディ・シェーマ)として起こる。それを意識に起こる他の認知的プロセスと連携される必要が生じた時に、初めて意識に上るボディ・イメージになるのである。

周囲の環境を認識する時、私たちは環境の中にあるものの形や色を認識しているだけではなく、それらのものがどのような行為を可能にするかというアフォーダンスの認識を、その上に重ねているものと考えられる。等々…。

ここでは、志向性というものが、重要なポイントになっていると思われる。志向性という能動的な行為なくしては、実は、アフォーダンスは立ち上がらないように私は思う。志向性を可能ならしめているものはなにか…。(なんてね。笑)
(つづく)
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『フラジャイル』を読みながら思った事がある。
「全体から断片へ」といい、「ネオテニー」といい、「欠けた王」果は、「境界をまたぐ」から「A10神経」等々まで栗本的要素ふんだんと思えるこの内容に、なぜかもの足らなさを感じてしまう。

栗本氏には何かわくわくするような、とても惹き付けられるような記述がある。たぶん、松岡氏もしきり言うようにそこには示唆的な要素がふんだんにあるからではないのだろうか。そんな記述の一つとして、ここに紹介したいと思う一節がある。私がとても好きな栗本節(ぶし)の一つであるといえるのではないだろうか。「反文学論」の「意識のレクイエム」(バタイユにおける〈外在性〉または〈非知〉の宇宙)から…。


意識のエネルギー

意識はその表層の個的意識とは異なった側面を持つ。いうなれば、意識性とでもいうべきエネルギーを有している。その意識性は、表面の意識それ自体が我々に対して説明してくれる意味性とは異なって、対象の関係づけ、ないし、対象の意味性の創出それ自体をも行うのである。これが、私の概念による「意識のエネルギー」である。「意識の無意識的なエネルギー」というようなレトリカルな言い方をすると通づるようなところがある。
勿論「意識のエネルギー」は、あるいはその基礎となる「意識性」は、深層の無意識とは異なる次元のものだ。深層にある普遍的無意識は、我々の考えでは、より普遍動物的なものであり、それだけではエロティシズムに到達しない。また、共同あるいは個別的な幻想をも作り出さないことは明らかである。これが、我々が、社会のすべての問題を無意識とか内部の“実体”の表層への表出プロセスとみるような単純な議論と決別する理由である。そして、意識のエネルギーを持つことが、人間と他の動物を分ける理由である。だから、意識のエネルギーあるいは意識は人間にとって「パンツ」のひとつである。
体内の深層の生命潮流は、つねに意識に働きかけ、その大きな部分を司ってはいるが、それとせめぎあうかのように〈死〉への衝動や期待感をも秘めこんでいる。それも決して、見えないような深い深い深層でないことは明らかで…(中略)
バタイユはしかし、この「意識のエネルギー」を過剰の貯めこみと、「呪われた部分」の蕩尽、破壊の衝動としてパターン化したのであって、エロティシズムはその重要な概念として、蕩尽へのぎりぎりの期待感の赤く充血した「関係」状態を措定するものなのである。
「思考(反省)さえもが私たちのなかでは、過剰のかたちのもとではじめて完成させられるのだ。恍惚の間における、耐えがたい快楽のように、目に入る限界を越えた者ものを見ることができないとすれば、思考の限界を越えたものを思考することはできないとすれば、過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?…悲鳴ととともに、自らへの不寛容のなかに沈むことが自らを無に帰する、この悲愴な省察の行きつく果てに、私たちは神を見出すのだ。(バタイユ)」(中略)だから、当然のことながら、バタイユ的な問題の本質は、死や暴力への恐れや陶酔ではない。人間存在の内部の〈神〉なる〈外在性〉への透視なのである。そして、その〈外在性〉とは、おそろしいことに我々とは別の生き物なのではないかという恐怖と憤怒。

ここからはちょっと、自分なりに書いてみます。「反文学論」は、1984年頃のものだが「意味と生命」が出る前としては、この部分は一番好きな文章と言っても良いかもしれない。なんだか、切実な感じが…。過剰ー蕩尽といったものが、ストレス発散や抑圧された本能的破壊欲求の解消と言ったような、単純な議論ではなく、ましてやそれを人間の悪しき行動様式の本質とする事で、新たな抑圧の対象とするといった議論でもまったくないことが、ここからよくよく汲取られるように思う。
「意識の無意識的なエネルギー」といい「見えないような深い深い深層でない」と言い我々のすぐそばに過剰ー蕩尽ならしめる人間存在の内部の〈神〉がいるように思われてならなくなってくる。このことで、思い出されたのが、精神分析の「自我の防衛規制」。簡単に説明するなら、自我は自分に都合の悪いことは現実を歪曲するってことらしいが、それが我々には気づかれないうちに、行われているって事を思いだした。あるいは、統合失調症だって、狂っているから幻覚が生じるというよりは、内部と外部のつじつまを合わせようとするために幻覚が生じる。つまり自我が崩壊しそうになっているにも関わらず、補償作用が生じているってことで、「自我の防衛規制」にしろなんにしろ、これは実のところもはや自我が取り仕切っているのではない。では何が?誰が?それ(補償作用)を行おうとしているのだ?などと思うのだった。
日々いろんな事を考えている。

仕事でもかんがえさせられている。
営業から、「営業と同じ事をするのは望んでいない、
提案をしてくれと」言われた。
客に近いのは営業なのだから、営業からインプットがなければ、何も提案などできない。
仕方なく、自ら材料探しに出ようとしているだけなのに、解っちゃいない。違う策を考えたりしている。
まぁ、それは良いとして。

「フラジャイル」は一通り読んだ。
すいすい読める。読めてしまう。
実は私の読み方は乱暴だ。
とりあえず、だいたい解る、知っている様な内容は、
どんどん読む。どうかすりゃ、「この辺りはこういう事を書いているんだなぁ〜」と思ったら、字面だけ読んでいる事もある。(笑)。
気になるところ、興味のわいたところ、おもしろいと思ったところは、急にスピードダウンして読む。
けれども、興味深いのだから、やはり展開が気になってどんどん読む。一番遅くなるのは、解らない時だ。
止まってしまう事もある。けど、やがて、とりあえずそれはそれとしておいといて、どんどん読む。
その後、確認するように、また最初から読み直す。
そして気になったところ、気に入ったところを、良く解らなかったところ等を、じっくり読み返す。

フラジャイルは今その段階だ。
けれど、今回はちょっとへんだ。
なんだか、今ひとつ目新しいものが見あたらない。
少し拍子抜けしてしまった。

それもそのはずだ。
気になったので、「千夜千冊」を見てみた。
やはりそうだ、『経済の誕生』(小松和彦・栗本慎一郎)の紹介の最後には『フラジャイル』について「これらを考えるようになったのは、もとはといえば栗本慎一郎と小松和彦の奔放な想像力の“交換”によっていた。」と書いてあるのだ。なんだ、我が師匠(とかってに言ってるが栗本氏のこと)の影響下にあると言ってもいいじゃないか。(笑)。目新しいものが見あたらない、のと同時に記憶の片隅にこの事があったのだろう。なんだかおさらいの感さえある。『経済の誕生』をまた読んでみようかなという気にもなっている。いずれにせよどちらも、答えがすぐに出せるような、いや答えをそもそもだすような代物ではないように思う。

『フラジャイル』とは「弱さの」ことであり、欠如とか部分とかの意味合いもおびており、それが一方で深さや多様性や複雑さを内包していて、必ずしも敗北を意味せず、それを肯定的にとらえることで、事の真相に迫ろうとする、とでもいったらいいだろうか。

少し苦し紛れの、試論をやってみようと思う。
そのなかで、おさらいとは、たとえばこうだ。
「人々はつねに『全体という安心』の名のもとにシステムのゲームをつづけてきたにすぎないということになる。全体感はつねに全体におよばず、全体は欠如の試練をうけるものだ。」と松岡氏はいう。
これは、私(栗本氏)のいうところの創発の暗黙知による包括的全体への志向とは違うように見えながら、実はそうではない。暗黙知は諸細目に注目するところから、いつの間にか全体への志向が働いているということをいいたいのであって、意識的に全体を志向するものでもなければ、ましてや全体の形成や完成それ自体のことではない。細目から全体へという『からへ』という関係、遷移のもとに存在するのが暗黙知であり人間であるということなのだと思う。さらには、全体とは諸細目への注目からの志向性のもとに遷移として発現し存在するもので、(暗黙知の層の理論における下位からみれば)、いわば仮説的な存在であり、虚構なのだ。別の見方をすれば、全体は細部における全体への志向性にささえられて存在するのだという事になるのだと思う。
たとえば、だから、栗本ならこういうのかもしれない。
人々は「全体という過剰」の名のもとに生きながらえてきたにすぎない。全体は欠如の埋め合わせを渇望するという試練をうけることで辛うじて可能なものである。と。ちょっと言い過ぎかな。(笑)。
(いつかに、つづく)
前述の内容から、私が神秘主義者だというふうに思われた人もいるかもしれない。私は神秘主義者でも、その反対でもないと思っている。事象そのものを、あるがままに見つめることで、時として開示される世界の妙を、ただ感じてみたいだけである。たぶんそれらはやがて、喜びにつながるものであるよに思われるからだ。
唐突ながら、私が影響を受けた思想家の言葉を、少し紹介します。

いかなるものであれ故意に超常現象を使用する背後には、おびえた自我の力を広げて環境を操作・制御しようとする力を求める衝動が潜んでいるからである。だが、環境とひとつであれば環境の操作になんの意味がありえよう?「精神技術」を開発しようとする衝動は、その本質において典型的なテクノロジーを開発しょうという衝動となんら変わりはない。通常のテクノロジーによって環境をひどく傷つけてきた自我が、精神技術を賢明な形で用いるとはとても思えない。とすれば、賢者のみがシッディを用いる資格を与えられるという結論に至らざるをえないが、賢者はそれとかかわり合おうとはしないだろう。にもかかわらず、今日、天使が足を踏み入れるのを恐れるところに、愚か者が殺到しているのがみられる。
「ケン・ウィルバー」

詳細については、またの機会に…。
はぁ〜、眠た。
(暗黙知)と(共通感覚)

さてこの論文の紹介もう少しで終わることとなる。
思えば、最初「要約して」みたいなことを言いながら、
結局その内容のほとんどを紹介してしまった。(笑)
しかし、あらためて読んでみると、どうかすれば、
この内容でも充分なくらい、その二つの理論の概略、
(と言ってしまうのが失礼なくらい)となっているように思える。
という事もあり、要約する事は避けた。
では、残りの2編を今日と明日で紹介してしまおうと思う。




 まことに〈暗黙知〉の動的な活動において、副次的意識は、そのなかに想像力と直観を含んでいる。あるいは少なくとも、暗黙知のダイナミックスのなかでは、副次的意識は、想像力や直観とともに働く、ということができる。すなわち、暗黙知において、副次的意識によって捉えられた要因の細目が、焦点的.意識によって統合化された全体となるとき、そこで働くのは想像力と直観であり、これらの働きなしに、〈から……へ〉の移行、近接項から遠隔項への移行は行なわれえない。暗黙知の働きの一つとしての科学上の発見について考えてみても、最初に働くのは想像力である。探究の対象あるいは目標となる問題さえも、想像力の働きなしには現われ出ない。なお、そのような想像力の活動は、問題解決の糸口がつかまれたときに停止され、統合の直観によってとって代わられる。想像力によって要因の諸細目が解き放たれ、直観によってそれらが新しく統合しなおされるのである。暗黙知におけるこの想像力と直観の働きは、自転車の乗り方を学ぶような感覚運動的な行為を体得するときでも、また、言語を習得するときでも、等しく見られる。たとえば、ひとが言明文をうまくつくれるのは、言表行為に先立って一群のことばが想像力によって活性化されているときである。文としてことばが急いで発せられるときに、役に立ちそうな多くのことばが動員され、用意されるのだ。このあとに、直観が働いて、用意され選ばれたことは群が言明文になるのである。
 このようなわけで、ひとはなぜ、言語の複雑な諸規則を見分け、思い起こし、適用できるのかということを明らかにするのも暗黙知のダイナミックスである。言語活動における意味付与と意味読解も、暗黙知の立場から、仕組が明確化され、広い領域に適用されうるようになる。すなわち、自然のなかでの意味の発見をめざす純粋科学は意味読解の営みであるし、或る目的のために事物を器械化する技術的発明は一種の意味付与として捉えることができる。このように〈暗黙知〉は、想像力と直観を含みつつ、諸分野を横断して働く。しかし、さらにそれは、私たち一人ひとりの身体を基体として働くのである。すなわち、われわれは、他事物に注意を向けるときには、いつでも、自分の身体についての副次的意識に依存している、ということができる。しかも、なにか或る事物を暗黙知の基体項(近接項)として働かせるためには、われわれはそれを自己の身体の内部に統合しなければならない。いいかえれば、われわれはその事物のなかに棲み込まなければならない。暗黙知の一つの働きであるこの棲み込み(in-dwelling)は、ディルタイやリップスのかつて説いた感情移入と似ているようでちがう。というのは、感情移入が入間の内部と外部、人間や芸術と自然・事物・理論の区別にまだ囚われているのに対して、棲み込みは明らかにそれらの区別を突破しているからである。しかもさらにポランニーは、自然科学と人文研究との隔たりを、〈われ─それ〉と〈われ─汝〉の隔たりとして捉えなおしている。そして、その隔たりを架橋する根拠づけを、われ自身の身体についての〈主観的われ─客観的われ〉(〈I─Me〉)の感知(意識)、に求めている。つまり、〈主観的われ─客観的われ〉を含むわれが、自己の身体について感知し、そこに棲み込むことが、すべての棲み込みの出発点になるのである(Knouwing and Being,p.160)従来、哲学的な心身関係論のなかでは、心が身体のなかに棲むという考え方は誤った見解として退けられてきた。が、ポランニーの場合、棲み込みを比喩としてではなく存在の在り様として捉えることによって、かえって、心と身体の関係についても新しい意と見方を与えたのである。そしてこのような棲み込みの考え方は、私が〈共通感覚〉論において、なぜ共通感覚によって他人の立場に立ってものを感じたり考えたりできるか、さらには、諸感覚の統合としての共通感覚が社会の諸成員の間のコモン・センスになりうるか、という問題について考えあぐんだことに対して、大きな示唆を与えてくれる。
 それらの問いに、これまでも私はなにも答えなかったのではなく、共通感覚の働きとしての想像力によって、一応の答えにはしていた。しかし、副次的意識=体性感覚的統合という結びつきにおいて、それらはいずれも棲み込みの一形態として見なすほうが、たしかにずっと説得的である。もっともポランニーは、棲み込みを想像力とほとんど関係づけては考えていない。その理由はさだかではないけれども、おそらく彼の場合、想像力が広い意味での発見(未知なものや新しいものの認知、習得、創作、読解など)の観点からだけ考えられたからであろう。さて、ここに、ポランニーの〈暗黙知〉の理論と、私の〈共通感覚〉論がおのずと出会った個別問題がある。それはほかならぬ〈逆転視野の知覚〉の問題であり、ある意味でここにはこれまで見てきた暗黙知と共通感覚の間の問題が結集されているともいえるのである。そこで最後に、その問題について考えておこう。そして、この問題はポランニーのいろいろな著書や論文のなかで扱われているが、詳しく扱われているのは、『知と存在』(Knouing and Being,pp.198─200)においてである。他方また、私自も『共通感覚論一知の組みかえのために』のなかで(111─135ページで)扱っている。ポランニーの叙述に即してやや立ち入ってみてみることにする。
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