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発病しないための試み。
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先日、「デザインの生態学」(後藤武・佐々木正・深澤直人)という本を購入した。書店で「脳」関係の特集コーナーが企画されていて、その中で手に取ってみて、この小見出しが気になったので、立ち読みしてみた。その時は、子供が一緒だったので、程々で書店を出た。その後全部読んでみたくなったので購入したのだった。

気になったのは「ぎこちなさの美」というところだ。
そこには、こんなことが書いてある。
脳卒中を煩った女性の、リハビリの記録ビデオについての話だった。
リハビリを始めた頃のは、その迷いのない加減のバランスを失ったような行動に異様さを感じてしまってらしいのだが、リハビリの進んだ三ヶ月後の打って変わった迷いだらけのその様子に、感動を感じてしまったというのである。その戸惑った、行為のぎこちなさに、美しさを感じるとも言うのだ。そして…。

>意識を超えることで環境との調和を極め最大のパフォーマンスえることがアートである。しかし、このビデオはぎこちなさを見る事によって、その人がある意味で人格を取り戻したことに感動する。意識や思考、感情が環境と一体化する流麗な身体の動きを妨げることをしった上で、鍛錬によって意識を消そうとすることの根底には、人間の行為がぎこちなさや淀みの連続であることの前提があることを知る。
このヴィデオをみ見て思った。真実の記録はアートおも超えているのかもしれない。アフォーダンスが見せる人間の真実は、我々が思い込んでいる人間像の反対にある…。

「違和感」は、この「ぎこちなさ」とも関連するものだと思う。
私は以前は「ぎこちない」ということばも使っていた。
これは、深澤直人の記述なのだが、この副題が(脱「デザイン」のデザイン)と呼ばれるように、ここから

>デザインが人の主観に作用する刺激を作り出すものだという思い込み。

ではなく。やがて

>人の無意識の行為の流れを理解する客観的な視点によってデザインされるもので、作者が使用者に対し要求する行為や求める願望の現れではないということである。

へと展開して行き、さらにアフォーダンスを内包するデザイン論へと展開してゆく。

まだ読んでいるのは途中なのだが、このように私においては「違和感」=「ぎこちなさ」はアフォーダンスともつながっているのである。などと、思う今日この頃なのだ。眠た。(笑)
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>「違和感」についての続論を期待しています。

とコメントいただいてから、
何事か続きだけでも書こうと思いながら、はや一週間以上経ってしまた。
あの時は、自分の中ではクリアな感じがしていたのだけれども、いざ書こうとなると不十分さが目立つように思うようになってきた。時間がかかりそうだ。それどころか、これからのテーマとなってくる内容ですらあるように思う。できれば気長に付き合って頂きたいと切にお願いしたい気持ちで一杯である。スミマセン。(笑)

違和感とはなにか少し書いてみます。

それは、ズレとか、差異とか、間(あいだ)、境界(界面)などと言う事と関係があるのだと思う。

このズレと差異は、他者と自己もしくは自己と自己、言葉と意味、「もの」と「こと」、外部と内部、環境と身体(有機体)の間に発生するものではないかと思う。

このズレや差異は既に存在する(出来上がった)ものとのあいだに発生するものではなく。あるいは、それ故に、解消されるものでもないように思う。

また、受動的な志向性と、能動的な志向性について。
これは、意識にとってという意味で、普通なら志向性自体が能動的なものと見えがちだがしかし、身体がもつホメオスタシスなどの志向性は、意識にとっては能動的というよりは、受動的に作用するものではないか。つまり自分の意志等とは無関係に働く志向性なのではないだろうか。これには意識は抗することはほとんど出来ないと言えるかもしれない。いや、意識しないと抗する事ができないというべきかもしれない。ということは、私たちの有機体の内部で、身体と意識という生きるという意味では統一体でならないはずのもののあいだで、志向性のズレや差異があるということを意味するのではないか。
これらは本当に試論の試論。
いや、着想ノート程度のものかもしれない。
忘れないうちメモっておこう。(笑)

違和感自体が我々の存在の、あるいは意識の根拠なのかもしれないと、最近は思い始めている。
我々の存在の根拠たる違和感は、能動性にねざすものであると思う。
問題は境界にあるのかもしれない。
我々自身が、栗本言うところの上下の層の境界存在たる身体のごときモノなのかもしれない。

志向性には
能動的志向性と、受動的志向性がある。
能動的志向性において、はじめて暗黙知は発揮され、
意味生成され、上位が実現されるのではないかと。

受動的志向性によるものが、幻想なのではないのかと、
思うのである。

違和感を感じえなければ、そこには境界の存在、果ては外部の存在さえも感じ得ないということである。
違和感が我々の能動性を喚起し、パーソナルコミットメント(人格参加)を要求するのではないか。違和感を退けるという事は、排除という暴力につながるということなのではないか。
違和感に注目するという事は、フラジリティにつながる

「ロバストネス(しなやかな強靭さ)とフラジリティは、あらゆるシステムの表と裏の顔なのだ。」
という言葉を最近知ったが、そうであるなら、フラジリティは強さでもあるということであり、その強さの由来とは「生きる意欲」としての志向性に支えられているからではないのだろうか。
(つづくかも、笑)
さてと、そろそろ書き始めるとしますか。
えらく長く休んでしまった。

最近考え始めている事がある。

少し前進できるのかもしれない。
志向性への新しい理解。

以前から私は、生命には自然治癒力やらホメオスタシスやらが深層のシステムとして働いているといことを考えていて、またその一方で創発や暗黙知やら、ゲシュタルト転換やパラダイムシフトについても考えて来たわけだが、この二つは実は相反するような内容であることに、気づいてはいた。それは恒常性と可変性と言った内容で、生命においてそれはどちらが本態なのか、あるいはその時々の必要に応じて変わるのかとか、さらには生物物理学者等の言う開放定常系の自己組織化システムといったことなのか、今ひとつ両者の関係がつかめないでいた。
しかし、今、自分なりの解釈とでも言えるようなものを見つけ出しつつある。
それは、やはり志向性ということにあるのだと思う。
栗本氏流な分りやすい言い方をすれば、「生きる意欲」としての志向性とでも言うべきものだと思う。志向性をその意味でとらえると、先の恒常性と可変性は容易に一体となるように思える。つまり、生命維持のために復元が必要となれば恒常性・ホメオスタシスになり、生命維持のために改変・進化が必要となればゲシュタルト転換・パラダイムシフトになる、と考える事が可能ではないか。
次にこの事は、「境界」についての絡みでも意味を持ちそうだ。栗本氏は「境界」との接触、あるいはその境界の向こう側たる外部との接触によって、自覚的精神なり個体性の発生がある事を示唆しているが、生きる意欲としての志向性もまたここ(「境界」)における危険性に
誘発されるような形で増幅すると考えられるように思う。
また、志向性には能動的なものと受動的なものがあるように思う。それは…(つづく)
道具が身体の延長として感じられるように、環境もまたその一部を身体の延長と感じられることがあるように思う。アフォーダンスとはその時の、我々におけるところの(環境というものの)立ち表れではないのだろうか。
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