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発病しないための試み。
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 こうして、いちばん重要で難しい問題に出会うのは第三の点である。ここにあらためてポランニーのいう副次的意識と、私のいう述語的統合(体性感覚的統合の発展としての)の対比と関連づけがいっそう必然性を帯びてくるわけだ。実をいうと、先にポランニーのいう副次的意識あるいはfrom意識の分かりにくい在り様をいわば焙り出そうとしたときにも、若干は私のなかの述語的統合の考え方の嚮導によったのだが、いまようやく、述語的統合それ自体と副次的意識とを関連づけて考えることができるようになった。私のいう述語的統合とは、主語的統合が自己同一的で求心的な統合であるのに対して、差異化やずれを含み、拡散的で遠心的な動向を媒介にした統合のことである。というのも、もともと述語は、主語が概念的な自己同一性と結びつきやすいのに対して、言語的な自己差異化や自己拡散化を体現しているからである。こうした点については、かつてM・フーコーが「外部の思考」(『クリティック』誌、一九六六・六)のなかで〈私は考える〉との対比で〈私は語る〉を問題にして次のように書いて、そこに見られる特徴を明らかにしたことがある。すなわち、〈私は語る〉においては、語る〈私〉はおのずと断片化され、分散され、ばらばらになってしまう。〈私は考える〉は私の存在の疑いえない確実性に導いたが、〈私は語る〉のほうは、われわれを拡散させ外部へと導くものである、と。
 だが、述語と述語的統合のもつそのような性格をいっそうはっきり示すのは、主語的同一性にもとづく主語論理に対する、述語的同一性にもとづく述語論理であろう。すなわち、主語論理が、大前提=リンゴは果物である。小前提=すべての果物には食べ頃がある。結論=リンゴには食べ頃がある、というかたちの三段論法をとって、必然的に──つまり一義的な──結論を導き出すのに対して、述語論理のほうは、次のようなものとなる。大前提=りんごはまるい。小前提=乳房はまるい。結論=りんごは乳房である。これは、今わざと推論(三段論法)と同じかたちで示したが、もちろんりんごと乳房との結合は形式論理にもとづく論理的な同一性ではなくて、ただまるいという形態の類似によって結びつけられたものである。したがって、リンゴは乳房でなくても他のまるいもの、たとえばまるい風船とでも、地球とでも結びつきうる。つまりりんごは、まるいものとだったら、なんとでも結びつきうる。しかも、それらを結びつけるのは、欲求であり、願望であって、いわゆる論理でもなければ概念の同一性でもない。この《りんごは乳房である》と考えるような思考方法は、容易に気がつくように、精神病者(とくに分裂病者)に見られるだけでなく、ふつうの人々の象徴形成・象徴使用のうちにも、また芸術家たちの創造活動のうちにも見出される。そして、たとえば芸術家が、これと似たやり方で、ふつう無関係だとばかり思われている物同士を結びつけて、ものの見方や世界の見方を変えさせるのは、彼が類似したものにとくに鋭敏な感受性をもっているためだけではない。それとともに、主語的同一性の論理(アリストテレス的論理)によって統一されている現実の全体をばらばらに解体させる力をもっているためである。私のいう述語的統合も、このような述語論理につながる性格、つまり差異化や拡散を含んだ性格をもっている。
 述語的統合がこのようなものとして捉えられるとき、それは、ポランニーのいう副次的意識といろいろな点でいっそう重なり合うことになり、副次的意識に新しい光をあてうるはずである。そこで、副次的意識を述語的統合と関連づけて捉えておくと、次のようになる。
 一、副次的意識や近接項(基体項)は、述語的統合と同じく、本質的に暗黙知のなかにあって主語的ではなくて拡散的であり、したがって、それ自体は意味を帯びていないが意味発生の基盤をなしている。また、副次的意識はそれ自体は明記されえなくとも、明記されるものを支えているのである。
 二、さきに見たように、副次的意識は一見それとちがい無意識や意識の縁暈とはっきり区別されて、その実体性が否定され、〈から……へ〉へとひとを導く機能性あるいはむしろ関係性が強調された。そしてその関係性は論理的であるとともに暗黙的であるとされた。この暗黙的でかつ論理的(ロゴス的)であるというのはまさに、自然言語の、とくにその述語面の特徴だから、副次的意識(つまりfrom意識)と焦点的意識(to意識)との関係は、述語的な言語論理の関係として捉えるのがいちばんいいだろう。
 三、暗黙知において、副次的意識は、要因の細目を対象化するのでなく多面的に捉えることによって諸細目の間の固定化された関係を解体して、相互の間の新しい結びつきへの道をひらく働きをし、この点で、暗黙知のダイナミックスあるいは暗黙的統合は、想像力と直観をも含むことになる。こうして述語論理にのっとった述語的統合と想像力や直観と結びつく副次的意識とは、さらに近い関係にあることが分かる。
 四、ポランニーは副次的意識を実体化して無意識や意識の縁暈と同一視することを退け、それを機能的な関係概念としている。ところが彼は、外界についてのすべての知の究極の基盤はわれわれの身体にあるとし、しかも、自己の身体について感知するにふさわしいやり方は、身体を副次的意識によって捉えることだと言っている(暗黙知の次元)。これは私のいう体性感覚的統合とほとんど同じ働きであり、したがって副次的意識は、私のいう、体性感覚的統合とそれを関係概念化した述語的統合の両方の性格を合わせもっているのである。
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 この明記しがたいことにもかかわるのだが、副次的意識は私たちに容易に、フロイト的な無意識やウィリアム・ジェームズのいう意識の縁暈を想い起こさせる。もう一方の焦点的意識がはっきり意識的なものであるから、副次的意識は無意識や意識の縁暈と同一視されやすい。しかし、彼は断乎として繰りかえし、その副次的意識がそれらのものとちがうと言っている。たとえば、こうである。

《焦点的意識は、もちろん、いつでも十全に意識的である。しかし副次的意識あるいはfrom意識は、識閾下のものから十全に意識的なものまで、どのレヴェルの意識においても存在しうる。ある意識(感知)の在り様を副次的なものにするのは、その機能的な性格である。だからわれわれは、副次的意識の存在をわれわれの身体の内部の諸機能に対してもつまり、直接の経験によってはわれわれに到達できないレヴェルでの諸機能に対しても─一主張することができる》(Meaning,p.39)。

 すなわちポランニーは、暗黙知における第一項と第二項の関係の機能的側面を強調することによって、副次的意識を無意識や意識の縁暈から区別するとともに、基体としての身体の内部の諸機能まで副次的意識にかかわるとしている。この三つは一見結びつきにくいように見えるが、そんなことはない。なぜなら、さきに述べたように、機能的側面のなかには、〈から……へ〉関係とともに〈近接項一遠隔項〉関係を含み、しかも近接項はそのまま基体項であるからである。そこにさらに、暗黙知の第一項と第二項の関係の意味論的側面を考慮に入れれば、もっとはっきりする。つまり、副次的意識はその場合、意味するものと意味されるものとの前者に働くので、記号のもつさまざまなレヴェルにかかわることになるのである。



 さて、このようにポランニーの〈暗黙知〉の基本的な構造とダイナミックスを見、また、そのなかを貫く副次的意識と焦点的意識の在り様を見てきて、次に私は、それらを〈共通感覚〉の考え方とかかわらせて考えることにしたい。この場合、〈共通感覚〉の考え方のなかでとくに問題になるのは、一対の対立概念である体性感覚的統合と視覚的統合、あるいは述語的統合と主語的統合である。体性感覚とは、広義の触覚と運動感覚とを含んだ、われわれ人間の漠然とはしているがベーシックな感覚のことであり、体性感覚的統合とは、諸々の感覚(簡単にいえば五感)の基体的統合を意味している。それに対して、視覚的統合というのは、概念的な把握力に通じる視覚のつよいリードによる諸感覚の統合のことである。私の場合、これらの統合を考えるに至ったのは、アリストテレス的な意味での共通感覚(コイネー・アイステーシス)つまり五感を貫き統合する感覚(*)という着眼を受け継ぎ、自分なりに発展・展開させていって、共通感覚による諸感覚の統合にも、どの主要感覚がリードするかによっていろいろな型のものがあることに気がついたためである。

(*)アリストテレスは共通感覚について、視覚に眼が、聴覚に耳があるような、そういう特定の器官はないとは言っているが、しばしば誤って考えられるように、共通感覚がないなどとは言っていない。だから、特定の器官としての共通感覚というものは存在しないということにはなるが、その点でも、感官というものを主体化せずに作用を担った関係として捉えるならば、共通感覚というのも積極的な意味を帯びてくるのである。

 そして、右のような体性感覚的統合と視覚的統合という対比を諸感覚の統合について考え、提出した上で、私はそれらをそれぞれ、基本的統合と主体的統合、さらには述語的統合と主語的統合というかたちに言い換えた(『共通感覚論』第?章第五節「諸感覚の〈体性感覚〉的統合」を参照)。それは言い換えではあったけれども、私の場合も、ポランニーが副次的意識と焦点的意識について言っているように、体性感覚的統合と視覚的統合という相関概念を、実体的なものから機能的なものに解き放とうとしたからである。つまり、存在の或る在り様を示す、いろいろなレヴェルの実在に適用できる概念にしたいと考えたからである。
 もちろん、私が考えた体性感覚的統合あるいは述語的統合が、ポランニーのいう副次的意識あるいは近接項(基体項)と似ているのは、それに先立って、私のいう共通感覚がポランニーのいう暗黙知とよく似ているからである。さきに私は、後期ヴィトゲンシュタインの論点とポランニーの論点とが重なるところについてギルが行なった指摘のなかから、とくに暗黙知に関係する三点をとり出した。それらを新しく番号を打ちなおして並べてみると、次のようになる。一、われわれは自分の語りうるものより多くのことを、いつでも知りうるし、事実知っているはずである。二、この知は、われわれの個人的な裏づけをもっている。三、そのなかでわれわれが推論する認識論的枠組の実在と性格は、焦点化もされなければ、明示的に分節化もされず、われわれの行動のうちに副次的にあらわれる。
 これらの三点について、共通感覚の考え方から対応しておくと、次のようになるだろう。一、人間の知は、論弁的に語られうるものだけに限定されてはならず、根抵にあってそれを支えるもの(隠瞼的なもの、サブ言語的なもの、など)までも含めて考えるべきである。二、この知は、生きられる身体によってこそ基礎づけられ裏づけられている。三、認識論的枠組や存在の地平は、物ではなくて場所(トポス)であり、主語的なものではなくて述語的なものであり、したがって述語的にしか知りえないだろう。このように対応させてみるとよく分かるのだが、第一の点は、暗黙知と同様に共通感覚も、論弁的に語られうるものだけでなく、サブ言語や非言語的言語の領域までかかわっていることを示し、第二の点は、暗黙知を別の角度から捉えた人格的知(個人的知識)と、共通感覚の発展としてのパトスの知とがいずれも生きられる身体と経験の上に根ざしていることを示している。そして第三の点は、暗黙知も共通感覚もその考え方を突きつめていくと、基体的なものの在り様をどう捉えるかという、伝統的な哲学の言語によってはたいへん捉えにくい問題に出会うことを示している。
しかし、暗黙知における第一項と第二項の関係は、その上さらに、要因の細目(第一項)が統合化された全体(第二項)によってはじめて意味づけられることから、意味づけあるいは意味作用の関係としても捉えることができる。〈現象的側面〉と呼ばれたことと関連づけていえば、第一項は第二項の現われのなかほじめて特別な意味をもったものとなるのである。この場合、主項と第二項の関係は、文における個々の単語とそれらの全体が示す意味との関係にきわめて近く、かつ言語表現のうちに、第一項と第二項のこの関係が分かりやすいかたちで示されている。だからポランニーも、手紙の文を構成することばとその表わす意味を例にとって暗黙知を説明する(Personal Kanowlendge,p.57;pp.91-92)とともに、意味付与と意味読解を暗黙知の立場からの考察の課題としている(Knowing and Being,p.181 ff)。(なお、ポランニーは暗黙知のこの第三の側面を、〈意味論的側面〉と呼んでいる。そして最後に、彼は暗黙知が、第一項と第二項の間に意味をともなった関係をうち立て、それによって包括的な存在を理解するものであることから、その側面を暗黙知の〈存在論的側面〉と呼んでいる)。以上において私は、ポランニーの〈暗黙知〉の考え方を捉えなおすのに、〈副次的意識〉(subsidiary awareness:従属的意識とも訳される)と〈焦点的意識〉(focal awareness)あるいは、副次的なものと焦点的なものという対概念をわざと使わないできた。これらは、それ自体として考えようとすると混乱を惹き起こす対概念だからである。しかし、右に見てきたようなかたちで、暗黙知の構造とダイナミックスとを捉えることによって、ようやく今、混乱を起こさずに、第一項と第二項とにかかわる意識(感知)の二つの形態の意味と働きを明らかにすることができる。
 すなわち、暗黙知におけるひと(第三項としての個人)が第一項(要因の細目)から第二項(統合化された全体)へと注意を向け第一項を第二項と結びつけるときに働く意識(感知力)は、第一項に向けられているものと第二項に向けられるものとは、相異なっている。前者が副次的意識であり、後者が焦点的意識である。この二つは相異なるばかりでなく、それ自体として相容れない。が、前者が第一項に、後者が第二項に対して働くのは同時であり、そのようなものとして重なり合っている。そして暗黙知のなかで焦点的意識が間違って第一項(要因の細目)のほう一向けられることがあると、たちまち第二項(統合化された全体)が解体し、暗黙知は破綻してしまう。そのことは、たとえば十分体得されたピアノの演奏のようなパフォーマンス性の強い暗黙知について顕著に見られる。楽譜の一々や指の動きに焦点的意識が向けられたりすると、パニックの状態に陥るだろう。
 また、副次的意識と焦点的意識とが二重の意識として働くのは、総合化された全体(あるいは意味)にまとめられる副次的な手がかりのすべてを、ひと(第三項である個人)が焦点的に感知しえないからではない。副次的な手がかりのすべてを同定することも、原理的には不可能ではない。しかしそこに焦点的注意が向けられると、副次的な手がかりとして働いていたなにかがその働きをやめ、かつて持っていた意味を失うのである。したがって、暗黙知にあって第一項たる副次的手がかり(あるいは要因の細目)は、本質的に明記されえない。だが、このように副次的な手がかりが明記されえないとは言っても、その明記しがたさには相異なる二つの型があって、その両方がそこには含まれている。第一の型は、副次的な手がかりを詳しく描き出すことは不可能ではないが難しいということにもとづいている。第二の型は、副次的な手がかりがその性質上、暗黙知においては、論理必然的にかつ原理上絶対的に意味を欠いているということにもとづいている。
前述、「〈暗黙知〉と〈共通感覚〉」において
暗黙知の概要みたいなところに、入って来ていますが、「意味と生命」でも同じような、
解説がある。私は正直言って、最初はよくは理解出来なかった。
それというのも、特に内容が難解であるなどということではない。
むしろ、当たり前の内容のように、思えてならなかった。
我々における、部分と全体もしくはその相互からの注目の
振り向けなどにみられる認識の構造とか。
さらにその部分と全体は、多重層構造を形成している。
などという大筋の理解においては、なんら新しくも、特異的でもなく、
さらには革新性のかけらも感じる事はできなかった。
なぜなら、ただそれだけなら、複雑な言語化できない知識もしくは、知の構造
の発見とその解明と言う事でしかなく。それでは、われわれが素朴に依拠して来た
近代の、それも中心的存在と目される科学的方法の範疇に入ってしまう。
私が求めるのは、それらの我々が前提としてきた世界観(パラダイム)の変更を、
促すものなのであって、栗本氏の諸説はそれまでは充分に答えるものであったが、
「意味と生命」においてはすぐには、それが見いだせなかった。
私は、とほうにくれながら、読み進めて行ったのだった。
といったところが、「意味と生命」における暗黙知の
まずはじめの感想であったように思える。

しかし、何かしら、端々に引っかかる、表記が見受けられたのである。
例えば──

「暗黙知─略─その行為全体の目的は、人間が自らの宇宙における存在論的位置を知ろうとする事であり、意味は(物理的定義ではない生理的プロセスとしての)身体を外界に空間的に拡大することであるから、意味形成の中に我々が感知することのできない体内の(原理としての)メカニズムが働くプロセス及びそこに含まれている進化や発生の原理を引きずり出して看取するためにあると言ってよい。勿論、その進化や発生とは実体的な対象ではなくて、それを制御している原理それ自体のことである。」

「注目を通じた焦点をある原理の上位に向ければ、その原理のレベルの細目は物理的存在であるかのように立ちあらわれるし、上位のそれは虚構の存在であるかのように見える。」

「痛みやかゆみの感覚は、既に実はある種の相互作用が物理的身体の上に加わってはじめて生まれる。それが物理的身体と言う単一の層から生まれる事はない。なぜなら我々の知覚過程一般はつねに無意識的なものであり、我々はその外在的形態としての感覚を自ら選択できない。」

「痛みやかゆみのイメージ形成と身体の運動とは、同じものではないかという疑問も設定される。少なくとも、もしそうであるとすると、我々の暗黙知の理論はすっきりしてくる。そしてその場合、日常的には同じレベル内のイメージとしての感覚の拡大として運動が存在すると考えればよいのである。我々の身体が運動しているというのも実は感覚なのではないか。」

等々である。
これらを通じて、我々が素朴にその存在の根拠の前提としている、体験や経験の依拠するところの、
身体といったものが、実体的にも虚構的にも感知されるという事があることにおいて、
まずはそれが対象それ自体の問題なのではなく、暗黙知と言う我々の認識の構造にあるという事を示唆する。
しかし、暗黙知が「知」と言ってしまっているところに、はからずも隠蔽されてしまっている、
システムや原理の構造をも意味するところも視野に入れると、さらには世界や存在というものが、
(原理的には)実体的にも虚構的にも感知されるという事があることをも意味するように思われる。
といった事がきっかけとなってさらに、読み進んでいく事になったのだった。

それらはやがて、部分とそれによって構成される全体というものが、多様で多重な様相のもとに、
人(パーソナルコミットメント)をも含めた相互作用によって、
ゲシュタルト的に“形づくられている”と考えることをもって、
新しいアプローチの方向を示しているのではないのだろうかと、
私には思えてくるのだった。続きはまたの日に。
今回はもう少し、どこからの出典であるのかなどの開設等もしておこうと思う。

これは、現代思想1986年3月号(増項特集=マイケル・ポランニー 暗黙知の思考)
からのものである。
現代思想という文脈において、マイケル・ポランニーが注目されるようになったのはこのころからだったのではないかと思う。
もちろん、栗本慎一郎氏よる注目によるところが大きいと思われるが、
まだこの時は、栗本氏自身の手による「意味と生命」(暗黙知理論から生命の量子論へ)と題された、暗黙知読解から、身体論、生命論への展開する試みはまだ世に出されてはいなかった。
この特集号は、栗本氏の「非決定とイマジネーション」という論文はもちろんのこと、他にも橋爪大三郎(社会学)、土屋恵一郎(法哲学)、室井尚(美学)、
村上陽一郎(科学史)、慶伊富長(化学)、秋山さと子(ユング心理学)
等の方々も寄稿されており、「暗黙知理論」がいかに超領野的展望をもった
理論であるのかを、うかがい知ることができる。
個人的には、「意味と生命と過剰」と題した栗本慎一郎氏と
丸山圭三郎氏との対談まで掲載されているのだから、
盛りだくさんの企画であったことは言うまでもない。
さて、先日に引き続き、記載しようと思う。


〈暗黙知〉と〈共通感覚〉マイケル・ボランニー読解序説 中村雄二郎

《およそ語られうるものは、明らかに研られうるものである。そして論じえぬことについては沈黙しなくてはならない》(『論理哲学論考』自序)。また、《示されうるものは、語られえぬものである》(同、四・一二一二)。徹底した論理主義の立場からこのように説いた初期ヴィトゲンシュタインは、自然言語の働きを本当に評価しようとする立場に移行するとき、語られえぬが示しうるものにはっきり向かい合わねばならならなかった。他方ポランニーは、《われわれは、語りうることより多くのことを知ることができる》(『暗黙知の次元』)と言っている以上、問題の重なり合いは明らかであるが、その重なり合いはどこまで及ぶだろうか。目安としてとりあえずその要点を捉えておきたいと思ったところ、幸いなことに、J・H・ギルが「語ることと示すことーヴィトゲンシュタイン『確実性の問題』の根本テーマ」(10,191974)のなかで、両者の問題の重なり合いを六つにまとめてとり出している。それを見ておこう。つまり、ここでギルは、後期ヴィトゲンシュタインの主要論点を次のように捉え、それらがいずれもポランニー的問題であると言っている。すなわち、一、われわれは自分たちの語りうるものよりも多くのことを、いつでも知りうるし、事実効っているはずである。二、このような知は、われわれの個人的(人格的)裏づけをもっている。三、根本的な事実についての疑いは、問題外とする。四、それにのっとってわれわれが推論する認識論的枠組の実在性と性格は、焦点的にも捉えられなければ、明示的に分節化もされず、われわれの行動のうちにただ副次的にあらわれるだけである。五、合理的な手続きが正当になりうるのは、ただコミツトメントによってだけである。コミットメントが世界のなかでのわれわれの存在様態を形づくるのだ。六、以上の考えのどれも、真理探究の合理性そして/あるいは実行可能性を弱めるものではない。これらの考えによってのみ、真理の探究が可能になり、意味あるものになるのだ。
 このギルの指摘は、はじめからかなりポランニー的な用語によって後期ヴィトゲンシュタインの論点を捉えているきらいがあるが、内容的にはそれで歪められてはいないし、捉え方としてもなかなか的確だと思う。そして、これらの六つの論点のうち、ポランニーの暗黙知や人格的知(個入的知識)の問題と、とくに深くかかわっているのは、第一と第二と第四の三つであり、またその三つにおいて、ポランニーの暗黙知や人格的知と私の共通感覚やパトスの知が交錯してくるのである。また、それらは相互に絡み合って分かちがたいが、それぞれ言語、身体、相像力の問題にかかわると言っていいだろう。

(つづく)

 ここまでは序文のようなものかもしれない。
 次は、中村雄二郎氏による、暗黙知の解説のような内容に入っていく事となるが、
 中村氏は、ポランニーの理論はわかりにくいというが、中村氏の解説も決して
 解りやすいとうはいえない、と言うよりも元の暗黙知が解りにくいのだから
 しかたがない。とりあえず進めるとして、次回は自分がどのように
 解りにくかったかを書く事で、解説のごときを試みたいと思う。
 では、続きを…。



 そこで、言語・身体・想像力をめぐって、ポランニーの〈暗黙知〉や〈人格的知〉、それらと私のいう〈共通感覚〉や〈パトスの知〉の交錯するところを明らかにしたいのだが、そのためにはまず、彼の〈暗黙知〉について、できるだけ納得いくかたちで捉えなおしておこう。ポランニーのいう暗黙知の働く範囲は自然科学の研究にまで及ぶが、その働きはとくに、人相の見分け方や高度の経験にもとづく医学的診断などのうちによく見られる。それらにおいては、個別的な知識の一々が不必要なわけではないが、それらがただ.ばらばらなものとして存在する限り、精妙な暗黙知としては働かない。必要なことは、それらの個別的な知識の一々が一つの全体のなかに、また一つの全体として統合されることである。人相の見分け方や医学的診断のような領域に典型的にみら右心能力が暗黙知と呼ばれるのは、その能力は、語りうることより多くのことを知っているからである。そこで暗黙知の構造であるが、それを私たちは次の三項から成る三角形として捉えることができる(*)。第一項とは、要因の細目のことであり、それに対する第二項のほうは、統合化された全体として捉えることができる。また第三項とは、第一項(要因の細目)を第二項(統分化され全体)に結びつける個人のことである。

(*)以下の暗黙知についての説明は、『暗黙知の次元』での三項的な把握を中心にし、他の諸著でのポランニーの言説をふまえた上、私自身が捉えなおし、再構成したものである。だから、第一項を〈要因の細目〉、第二項を〈統合化された全体〉としたのも私の捉えなおしによるもので、それらはそのままのことばとしてポランニーのなかにはない。個々の著書での説明がこんなに部分的な著者も珍しい。

このように暗黙知は、分解して示すとすれば、右のような三項の結びつきとして表わさざるをえないが、実際には三項は一体化して働いている。第三項(個人)によって結びつけられると述べた第一項(要因の細目)と第二項(統合化された全体)の関係にしてもそうである。そしてそのことを前提とした上で、暗黙知が働くための第一項(要因の細目)と第二項(統合化された全体)の関係を捉えると次のようになる。
 まずひと(第三項である個人)は、第一項について知っているが、それは、第二項に注意を向けるためには、第一項について感知(意識)していることを手がかりにせざるをえないからであり、またそのようなものとしてである。これが第一項(要因の細目)と第二項(統合化された全体)との基本的な関係である。そしてこの第一項と第二項の関係は、暗黙知の働きにおいて、第二,項を知るためには第一項が手がかりとしてどうしても必要なので、〈手がかりとそれが示すもの〉との関係である(それを以ってポランニーは〈論理的な関係〉と言うのだが、のちに述べるように、これは不正確な言い方である)。また、第一項と第二項の関係は、感知しながらそこから注意をそらすものと、そこへと注意を向けるものとの関係でもあるので、〈から……へ〉(from-to)関係と言うことができるし、さらに、〈から……へ〉の在り様を考えると、それは身近で基本的なものから遠くの末端的なものへを意味するので、解剖学の術語を使って第一項を〈近接項〉(proximal term"基体項とも訳される)、第二項を〈遠隔項〉(distal term'末端項とも訳される)と呼ぶこともできる。二つの項をポランニーがなぜ、解剖学の術語でこのように呼んだかについては、彼自身十分に説明していないが、要因の諸細目と統合化された全体をそれぞれ基体的なものとそれから出発して或る実現を見たものとして捉えていることはたしかである。さて、暗黙知における第一項と第二項は以上のような関係(これをポランニーは〈機能的側面〉と呼んでいる)だけにとどまらない。次に──これもさきに述べた基本形から出てくることだが──重要なこととして、ひと(第三項たる個入)は、暗黙知においてその第一項(要因の細目)を第二項(統合化された全体)の現われ(appearance)のなかに感知しているということがある。暗黙知においては、ひとはあるものから他のものへ注意を向ける場合にも、実は前者を後者の現われのなかに感知しているのである(このことをポランニーは暗黙知の〈現象的側面〉と呼んでいる)。


(つづく)
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