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発病しないための試み。
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日々いろんな事を考えている。

仕事でもかんがえさせられている。
営業から、「営業と同じ事をするのは望んでいない、
提案をしてくれと」言われた。
客に近いのは営業なのだから、営業からインプットがなければ、何も提案などできない。
仕方なく、自ら材料探しに出ようとしているだけなのに、解っちゃいない。違う策を考えたりしている。
まぁ、それは良いとして。

「フラジャイル」は一通り読んだ。
すいすい読める。読めてしまう。
実は私の読み方は乱暴だ。
とりあえず、だいたい解る、知っている様な内容は、
どんどん読む。どうかすりゃ、「この辺りはこういう事を書いているんだなぁ〜」と思ったら、字面だけ読んでいる事もある。(笑)。
気になるところ、興味のわいたところ、おもしろいと思ったところは、急にスピードダウンして読む。
けれども、興味深いのだから、やはり展開が気になってどんどん読む。一番遅くなるのは、解らない時だ。
止まってしまう事もある。けど、やがて、とりあえずそれはそれとしておいといて、どんどん読む。
その後、確認するように、また最初から読み直す。
そして気になったところ、気に入ったところを、良く解らなかったところ等を、じっくり読み返す。

フラジャイルは今その段階だ。
けれど、今回はちょっとへんだ。
なんだか、今ひとつ目新しいものが見あたらない。
少し拍子抜けしてしまった。

それもそのはずだ。
気になったので、「千夜千冊」を見てみた。
やはりそうだ、『経済の誕生』(小松和彦・栗本慎一郎)の紹介の最後には『フラジャイル』について「これらを考えるようになったのは、もとはといえば栗本慎一郎と小松和彦の奔放な想像力の“交換”によっていた。」と書いてあるのだ。なんだ、我が師匠(とかってに言ってるが栗本氏のこと)の影響下にあると言ってもいいじゃないか。(笑)。目新しいものが見あたらない、のと同時に記憶の片隅にこの事があったのだろう。なんだかおさらいの感さえある。『経済の誕生』をまた読んでみようかなという気にもなっている。いずれにせよどちらも、答えがすぐに出せるような、いや答えをそもそもだすような代物ではないように思う。

『フラジャイル』とは「弱さの」ことであり、欠如とか部分とかの意味合いもおびており、それが一方で深さや多様性や複雑さを内包していて、必ずしも敗北を意味せず、それを肯定的にとらえることで、事の真相に迫ろうとする、とでもいったらいいだろうか。

少し苦し紛れの、試論をやってみようと思う。
そのなかで、おさらいとは、たとえばこうだ。
「人々はつねに『全体という安心』の名のもとにシステムのゲームをつづけてきたにすぎないということになる。全体感はつねに全体におよばず、全体は欠如の試練をうけるものだ。」と松岡氏はいう。
これは、私(栗本氏)のいうところの創発の暗黙知による包括的全体への志向とは違うように見えながら、実はそうではない。暗黙知は諸細目に注目するところから、いつの間にか全体への志向が働いているということをいいたいのであって、意識的に全体を志向するものでもなければ、ましてや全体の形成や完成それ自体のことではない。細目から全体へという『からへ』という関係、遷移のもとに存在するのが暗黙知であり人間であるということなのだと思う。さらには、全体とは諸細目への注目からの志向性のもとに遷移として発現し存在するもので、(暗黙知の層の理論における下位からみれば)、いわば仮説的な存在であり、虚構なのだ。別の見方をすれば、全体は細部における全体への志向性にささえられて存在するのだという事になるのだと思う。
たとえば、だから、栗本ならこういうのかもしれない。
人々は「全体という過剰」の名のもとに生きながらえてきたにすぎない。全体は欠如の埋め合わせを渇望するという試練をうけることで辛うじて可能なものである。と。ちょっと言い過ぎかな。(笑)。
(いつかに、つづく)
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どこかで聞いたと思ったら。。 2008/02/03 15:48
先ごろ、届いたお取り寄せをした食品の箱だった。
フラジャイル・・英語が苦手なので、フラジールと思って、なんか変っと思っていた。
単純に壊れ物。。とか慎重に取り扱ってください。。だと勝手に解釈していた。
家族は、読めたらしく、こわれものとか。。痛みやすいとか。。易損品。。まあ、やさしく注意深く丁寧に扱ってねという意味だという。
届いた荷物は、乱暴に扱うと、形を損ない下手をすると食べ物だと食べられなくなる。
っという事なのだと、単純に思う。
届いて嬉しいが、扱うときに気持ちや思いばかり、やさしさ、配慮、深くは、箱の中の音を聞きながら丁寧に扱う事が必要だという事なのかぁと、漠然と思い返す。

全体の中の欠如という試練は、時によっては取り返しの付かない欠如を招くのだと確信できる。その欠如は、全体の他に、よりもっと小さな全体を潰してしまい、跡形もなく滅してしまう。そういう意味では、渇望しながら青息吐息で、辛うじて皮だけで存在する全体もある。というか、今の日本の中のほとんどのデカイ全体はその様だ。
埋め合わせが有るのではなく、まさしく、埋め合わせたい切望が、渇望となり、って事だな。正直、笑いたい。
全体の中のサイズが大きい構成要素や大粒・または、中粒が、折角届いたお届け物にフラジャイルと書いてあったことに気が付かなかった結果だ。
皮だけの大きな全体は、往々にして、粗悪な大粒をとんでもないところに置き忘れている。
そうなったら最後、バランスだけで空間に存在し、フラジャイルを読み落とさなくても触る事が出来なくなる。
粗悪な大粒や中粒は、志向性。。フラジャイルを読解できない。
次第に、志向性は崩壊し、中空が生じ、間質性肺炎のようなものも発生する。
細胞崩壊の始まりだと思う。

今の実感です。
EDIT
Re:どこかで聞いたと思ったら。。 2008/02/03 21:49
コメントありがとうございます。
自分の書いている事に自信が持てなかったので
コメントなんぞ、無いやも知れないと思っていたら、
奇特な人がいてくれた。(笑)。
でも、自分のもさることながら、
想ちゃんのも解り難いですね。(笑)

「弱音を吐く事を」すすめるというよりは、
「弱音を聞く事を」重視したいと松岡は書いているが、
言い得て妙であると思う。
贈り物の「弱音」がすぐに聴こえるように、
注意を払いたいものですね。
失礼しました。(笑)
無題 2008/02/04 10:50
おお、読み進めていらっしゃいますね。
私、まだ、半分ちょっとです。
memeさんは、フラジャイルなものの構造的な意味のようなものに着目されているように感じました。全体と細部との関係のような。
私はまだ読み終わっていないので、はっきりしませんが、多分、自分の中に昔から在るアンテナのようなものが、拾っては集め偏愛している、様々な些細なものへの愛情の意味を掴むヒントがある気がしています。
それは、松岡氏の論がヒントになるという意味じゃなくて、そこにまつわる、栗本氏はじめ世阿弥であるとか、大島弓子とか、能とか、そういうもの、取り上げられている諸書の方からなんですけども。
松岡氏の本として、興味が湧くのは、細部にこそ意味があるとしているこの本を、全体としてどのようにまとめているんだろう、ということかな。
また、そろそろ読むのを再開しようと思います。
聡子 EDIT
Re:無題 2008/02/05 00:09
ちょっと言い過ぎてしもうた感がありますなぁ。
すみません。
お気を悪くなされんで下さい。(笑)。
書店で立ち読みしておしろいと思ったのは自分自身だし、今再読してみているが、よく読んでみるとそれぞれの論が進められている感もあるし、論じられていなかった隙間を埋めるようなものも見つけられつつある。
最後に出て来る「ラディカル・ウィル」も気になっている。
自分なりには、一見そのようには見えないかもしれない、これらの事どもと関係あるだろうなと思っている栗本氏の一節を次に紹介します。
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