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発病しないための試み。
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先日、国立国際美術館(大阪)に「夢の美術館/大阪コレクションズ」を観に行って来た。在阪美術館所蔵の、現代美術作品を集めた展覧会だった。メジャーな作家30人くらいの72点の作品が観ることができた。もともとあんまり知らない自分でも知っているぐらいのメジャー級が殆どだったので、得した気分になった。
個人的には、今回の収穫はなんと言っても、フランク・ステラと言っても良いだろう。ミニマルアートが何であるかが解ったように思う。たぶん写真でみたのでは、あまり良くは解らなかったであろう。それは、私の今回の目的とも言える、アンフオルメル系の作品群のあとにやって来た。
残念ながら、ミッシェル・タピエもジョルジュ・マチウもなかった。マーク・ロスコは観たいものの一つだったので、何か見えるかもしれないと思っていたのもあったがそういうのは見受けられなかった。
それは、モーリス・ルイスあたりからやってきた。画面の下左右の二角に外側から中央の下方に向けて、5・6本だったか、線状に筆のような筆跡で原色系の映えたカラーが入れられてある。すごく単純なものなのに、奥行きなり動きを感じる、しかも色が入れられている箇所以外は、地の素材のままなのだ。その素材のところだけを視ると、単に素材なのだが、色の入った箇所と合わせてみると、その素材がそうとは感じられないのだ。色との対比のせいなのだろうか、単なる素材が表現の一部と感じられてくるから不思議だ。そして、そこに描かれた原色系統の色の筋がまた存在感があるのだ。
その不思議さが、まだ醒めあらぬうちに、フランク・ステラはやって来た。2メートル位の正方形の画面にブラックをバックに細い白のストライプが描かれている。(上部図)作品の前に視界に作品以外のものが入らないぐらいの地点に立つと、奥行きがかんじられるのだ。そして、奥へと引き込まれつつ、下方へすっと引き込まれるような感覚がする。そして、単に感覚だけでないまさに奥行きを感じるのだ。おもしろい。不思議だ。崇高な感じさえする。その黒が闇にも感じられ、すうっと向こう側があるような奥行きを感じるのだ。
実は、帰ってから、コンピューター上でイラストレーターを使って再現してみた(上の写真)。するとどうだ、ほぼ同じものが感じられるではないか。なるほど、ミニマルとはこういう事なのか。単純な色と形なのに、いろんなものを感じる。オプティカル・アートほど、人の錯視を利用したものではないにしても、人の視覚構造の特性を利用したものであるように思う。しかし、オプティカル・アートにはその効果が大きいところからくるせいか、錯視であることを意識させられてしまう感があるが、このストライプはそれとは違い、錯視が派手でないせいか厳かな感じさえする。表現はミニマルであっても、こんなにも、謎めいた奥行きを作品にあたえる事ができるのか、という発見をした日だった。
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未知なる音楽を前にして、新しい音楽の聞き方を探り出していくと言ったような私の音楽の聴き方は当然の帰結として、フリージャズや現代音楽にまで触手を延ばす事となる。

しかし、そこまでいってしまうと、しだいに、もはや音楽とそうでないものとの境界自体が疑問に思えてくるようになる。

実は、私がキュビズムを通じて抽象絵画へと歩み出た、その行きついたさきもアンフォルメル(不定形絵画)という、絵画とそうでないものとの境界が曖昧になる次元だった。

ここまで来ると、自分の作り出すものよりも、そこいらにある、ゴミやスクラップのなかにある錆びくれ腐食したシミ・汚れや、木片や板きれなどの、ものの方が余程深みがあって、複雑な色や形が醸し出されていて、到底自分の及ぶところのものではないという、感覚に捕らわれるのであった。そうなると、もはやそういった表現自体の意味が分らなくなって来るのだった。もちろん、厳密に言えば、多くはそういった自然的構成物がそのままで、アートになるわけではない。例えば本場中国の柳麺が日本人の口に必ずしも合わないというところから、日本人の口に合うラーメンが生まれたように、自然界の造形もそのままでは人間の感性にあわないという理由で、アートという料理・調理が施されるのを必要とすると、考えることも可能だ。けれども、やはり一方で、花鳥風月などとったような手つかずの自然みたいなものを、愛でる感性が人間に、特に日本人にはあるではないか。そのような感性があるなら、芸術作品という料理法がどこまで必要なんだろうか、と思えてくるのだった。
つまり、結局自分は音楽を聴く事の果てに、アートを鑑賞し制作するという向こう側に、この住み慣れたこの世界や目の前に広がる大自然に帰り立つのではないかという事に思い至る。(つづく)
アルベルト・ジャコメッティ
http://ja.wikipedia.org/wiki/アルベルト・ジャコメッティ

私のジャコメッティ空間変容体験は、見ようとして見たものではない。
それは20代前半の、現象学的還元を経た実存レベルの感覚(要するに抽象絵画の感覚)が
未だ冴え渡っていたころの出来事だ。
私は、当時付き合っていた彼女と神戸をぶらっとしていた。
特に何を見にというわけでもなく、兵庫県立美術館に入ってみたのだ。
いくつかの作品をながめながら、歩いていくと、何か解らない不思議な黒い棒のようなもの立っていて、その上部に固まりがついているようなものが見えてきた。
他にも作品はあるのに、妙にそれに惹かれるのだ。
美術館なんだから何らかの作品なんだろうと思いつつ、何なんだろうなぁ…、と近づいていくと。
どうやら人の胸像のようであるが…。と思いつつ作品の周りをゆっくり回ろうとした。
「あれっ自分の目がおかしい。軽いめまいのようなものを感じる。」
と思いつつ、さらにゆっくり回る。
「なんだっ。何かの仕掛けがあるのか?おおっ、空間が歪んでいるのか?」
回りつつ、少しずつ離れて見ようとする。
「なんだこれは、空間が歪んで感じる。ええっ、こんなことがあるのか?」
作品の周りを回りながら、横から正面へと角度を変えて見ていくと、
正面へいくに従って上部の空間が上下に引き延ばされて感じるのだ。
空間の歪みを強く感じるほどに、息苦しさを感じるのだった。
プレートの作者名を見て、思った。
「写真では見たことがあったが、これがジャコメッティか。
実物は全然ちがうなぁ。ものすごい、存在感だ。圧倒的ですらある。ここには苦しみがある。」と思った。
すかさず、彼女に聞いてみた。当時、彼女はワコールのアウターウェアブランド「HAI」の皮小物等のデザインを、末端ながらも手がけていたのだから、あきらかに私よりデザインセンスの持ち主だったと思うが、それでもとくに反応はなかった。

さらに、興味深いのは、このあと何年かたってジャコメッティを見る機会があった。
あの空間変容体験が感じられると、胸躍らせながらみたのだが、実はそれほど感じなかったのだ。おかしいなと思ってじっと擬視すると、やっとジワーッと感じてくるのだった。
つまり、いつでもどこでも誰にでも、感じられるとは限らないのではないかということなのだ。
しかも、たぶんそのようなモノとは知らず、不意に出くわした方が、その感動は大きいのではないだのろうかと思うのだった。
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