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発病しないための試み。
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先日の社員旅行で、アミューズメントパークに行ったおり、不思議なものにお目にかかった。

あるアトラクションの行列待ちをしていた。なにげにふと足下をみてみた、するとどうだ同心円状にタイルが貼られているのだが、それがくるーっと回転して見える。
「おぉ、回ってるんか、気をつけんと転けてしまうんとちがうやろか」と思ってその場から足を外そうとした。そしたら、回っているのは、そこだけでなく隣り合った同じような同心円状のタイル張りも、回っているではないか。「おぉ、どうしたらええんや」とよく見ると、その上に乗っている自分は廻ってはいない。透明アクリル板でも一枚咬ませてあるのかと思いきや、どやらそうでもない。よくよく視ると、それぞれの同心円に目線を移動させる時、90度ぐらいだったか、回転するように見える。移動させる視線に合わせるかのように、次々に回転し各々の同心円状タイル張りを伝場するかごとく回転して行く。
「こっ、これはオプティカルアートとちゃうんか」と、学生のころに行った時の教授の個展の絵を思い出した。
誰かが意図的にそうしたのか、それとも偶然そうなっているのか。何れにしても、動いて見えるということそのものと言うよりは、そのように見える造形構物の存在と、人の目の構造の存在する事に、今更ながら感慨深い驚きと感動を味わったのだった。
私が驚いたのはもう一つあって、周りに同じように列をつくって待っている人たちがほとんどそれに気づかない、あるは、さして気にもしないようなのだ。時折「これ動いてる」という少し驚いた声があがっても、他の話題にかき消されて行くようだった。一緒にいた同僚にしても、「これ、動いて見えるなぁ。凄いなぁ」という私に、「 あぁ、うごいてるなぁ。知ってるよ」で終わりだった。

思えば、私がオプティカルアートを初めて見た時も、「動いて見えるのは解るけど、錯視を利用したものが、どうしてアートの範疇に入るのだろう」と淡々としていた自分への印象がある。今回の人々の反応もそういった事に近いようにも思う。あの時の自分と、今の自分との違いが何なのかと、ふと考えさせられる出来事でもあった。

これが、美術館などの展示物であったりしたら、人々の反応はまた違ったものになるんだろうなぁ、などとも思うのだった。

残念ながら、写真は撮りそこなってしまった…。
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真なるものと、そうでないものとは、ごく簡単な言い方をすると、「開かれたもの」と「閉じたもの」という風にも言えるかもしれない。
前回、より上位への志向をもつのが真なるもので、ある層で完結するものが、真でないものと言う趣旨のことをいったが、とするなら、これは完成度が高いものが必ずしも真なるものではないということだとも言える。
完成度が高いというのは、多分に結果が予測されている、到達すべき地点が明確であるということでもある。
とすれば、作品にはそれ以上(以外)のものは内包されない。これは、むしろデザインというべきものであろうと思う。一般的には知られていないが、そもそもデザインとはそういう、計画的にモノをつくるという意味もあり、実際そのようにつくられている。 
一方、アートは極端な言い方をすれば、どのようにつくるかの制約がまずないのだ。それを自分で設定して、さらにつくりながらそれが、変わって行く事だって珍しくはない。つまり、常に作品を超えたような視点、すなわちさらなる上位の包括的全体なるものが、志向されているといっても過言ではない。と言えるのではないか。
包括的全体(意味)は、我々の持つ(認識の)ゲシュタルト的な性質、すなわち暗黙知によって、生成される。
ゲシュタルトとは意味のある(全体的な)まとまり、あるいはグルーピングであり、そこに暗黙知の働きがある。けれども、それは意識化出来ないと言う意味での「暗黙」という事なのだと思う。何ゆえに意識化できないのか。それは、私達の存在自体が、意識のシステムだけに依拠して存在しているからではないからで、暗黙知とは意識外のシステムの力を借りようとする事なのに、意識を働かせてしまっては、その力を引き出す事は出来ないからだ。意識外のシステムとは、その一つは身体的なシステムということが出来る。
昨今の健康志向は、単にそれだけにとどまるのではないのだと思う。人が持つ身体システムへの注目と開放によって、意識外システムとしての暗黙知の回復を、これまた暗黙知的(無意識的)に志向しているのだと思う。

そして、蛇足ながら創発とは暗黙知によって生成されることで、観者の暗黙知にも働きかける性質を内在させた存在(作品)であるということだと思う。

前述の「創発の絵画」とは大仰な事を書いてしまったかもしれないと反省している。
彼女の絵が見合わないと言うのではない、自分にそれを語るだけの力量がないことを感じてしまった。(笑)
随分時間をかけたが、今回は断念して次に進もう。

さて、要するに、(私的には)真なるアートとは、現前にある作品において、より上位の包括的全体を予感させるベクトルを感じさせるものであるか否かということだと考えている。
私にとっては、「視」にはそれを感じるが、「RELAYER」は、あまりそれを感じられないのである。それは、ロジャーデーンがデザイナーだからなのか、あるいはその仕事がジャケットデザインだからなのか。つまり、デザインと言うのは基本的に、何かの為にデザインされるのであって、あらかじめ存在するコンセプトからはみ出たり、それを超えて行くものではない。だから、「RELAYER」にはそういったモノが感じられないのはあたりまえと言う事でもあるのだと思う。
まぁ、そういう意味では、比べる事じたい間違いではあるのだが。
ようするに、ロジャー・ディーンに惹かれていたのは、
造形的な目を持つ前の、素朴な趣味趣向の部分であった
ということなのだ。にも、かかわわらず両者の共通点を感じてしまうということは、彼女の絵に対しては、趣味趣向の部分と造形的な視点と言う部分の二重の意味で、惹かれているということなのだ。(つづく)
眠る時間も欲しいので、ちょっとだけ。(笑)

さて、前回のコメントの返事でも述べたように。
「視」と「RELAYER」は、実は似て非なるものでもあるとも、考えている。
かつての、ブログでも述べたごとく、アートには真なるものと、幻想としてのものがあると私は考える。
基本的にこの発想は、栗本慎一郎の「意味と生命」からきている。

氏によるなら、思想とは、ある層への注目を通してより上位、すなわち包括的全体へと志向する意味生成行為である。一方そうではなく、ある層において完結(安定)してより上位へと志向しないもの、あるいは上位へと抜け出せないものがあるという。前者を真の思想と呼び、後者を疑似的(幻想的)思想だとしている。
ここにおいて、真の思想とはそのベクトルをさらなる上位へと常に志向し、指し示すものである。

(つづく)
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